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「ただいまー」
安アパートの狭い玄関で靴を脱ぐ。
サンダルと、ボロボロのスニーカーと、買ったばかりのスニーカーと、そこそこ履き込んだスニーカー。
「お、揃えてくれたのか。ありがとう」
今朝までは脱ぎ散らかしてた靴も、隅に溜まっていた砂やら埃もなくなっている。
そしてそこに、ペットボトルがぎっちり詰まったビニール袋が、ものすごい存在感で置かれていた。
「やべ、また忘れた。ごめんな」
ペットボトルを洗ってラベルを剥がしてキャップと分別して捨てるのは面倒くさいから、やってもらえてとても助かる。
最初はキッチンの隅にあったはずのビニール袋がここに移動したということは、いい加減にしろと言うメッセージだろう。
狭い部屋にこれがいつまでもあるのは邪魔になる。
トイレに入ると、チカチカと電気が点滅した。
ふっ、と暗くなる。
慣れたもので、そのまま用を足して手を洗った。
ガタガタガタガタ!
窓が揺れる。
「なんだ、今日は風が強いな」
ガタガタガタガタ!
今度は机が揺れた。
「地震か?」
すぐに揺れが止まる。
いつものことだ、気にしない。
「カレーでも食うか」
レトルトカレーを鍋で温め、パックご飯をレンジで温めて、適当な皿に盛った。
ペットボトルの炭酸飲料で流し込むように食べて、皿とスプーンを流し台に積んだ。
昨日食べたラーメンのカップがそのままになっている。
「これいつ洗ってくれるんだ?」
そう言ったら、ガシャンと積み上げた皿が崩れ落ちた。
自分でやれってことだろうか。
今朝脱ぎっぱなしにした寝巻きがベッドに畳んで置いてあったから、それを持って風呂に入った。
シャワーを浴びていると、鏡に俺のじゃない手形が付く。
曇った鏡に、キュ、キュと文字が浮かぶ。
明日 燃える ゴミ
そう書かれた鏡にシャワーをかけると、鏡の中に、長い髪の女が映った。
先月、悪友に誘われて、心霊スポットと噂のトンネルに行ったときのこと。
スマホで撮影しながらトンネルを通過したとき、目の端に何かが見えた気がする。
けど、悪友はなにも見えなかったと言うし、スマホで撮った動画にも変わったところはなくて。
なのに、その日以来、俺の狭くて汚いアパートは、毎日少しづつ綺麗になっていった。
最初に気がついたのは、足の踏み場もなかった部屋の畳が見えたこと。
脱ぎ散らかした服は洗濯されしまわれ、床に散乱していた漫画は巻数順に積み直されている。
足ないのにそういうの気にするんだなと思うとちょっと面白い。
「ゴミの日ね。わかったけど、さすがに風呂は恥ずかしいよ」
からかうと、ぶつんと灯りが消えた。
途端にシャワーが冷水になる。
「あっ、ちょっ待て、ごめんって寒い寒いから!」
謝るとすぐに電気がついて、シャワーも温かくなった。
「なあ、そろそろ名前教えてよ」
返事がない。
シャワーの音だけが狭い風呂場に響く。
「そこにいるんだろ?教えてくれないと勝手に呼ぶよ。にゃんちゃんとかどう?…わーーっごめん!ごめんなさい!」
思いつく中で一番可愛くて恥ずかしい案を出したら、またシャワーを冷水にされた。
「いたんなら返事してよ…」
ぶつぶつ言いながら風呂場を出る。
湯気で曇る脱衣場の鏡。
きゅ、きゅ、きゅと、見えない指が何かを書き示す。
「美世子ね。いい名前じゃん」
鏡に写ったときだけみえる美世子の顔。
幽霊らしく青く暗いけど、その時だけはなんとなく、赤らんで見えた。
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