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「ただいまーー!!!」
顔を真っ赤にしたエマが、酒臭い体でジュンヤに押しかかってきた。どうやら、あの地下バーにずっといたらしい。
「おじ様に合えるかなーっておもって。ちゃんと会えたしお話もできたのー。ほら~。サインもらちゃった」
にへらにへらと笑うエマからその怪しいサインを受け取って、ジュンヤは深くため息をついた。
そこには達筆な一本書きのローマ字がシルクハットをかぶっているようなサインが書かれている。
(おじ様ってこいつのことか)
「でっ……この人がどうかしたのか?」
ジュンヤがそう聞くと、まるでエマは恋しているかのように頬に手を置いてニヤニヤと話し始めた。
「私、最後に書く題材を探してたんだよね~。実際、死ぬ場所なんてどこでもいいし。最後にこれだって思えるものに出会って絵を書こうって。そうして、おじ様に出会っちゃったんだー」
彼女が言うおじ様。それは、あの地下バーの大スター『藤川マーベランス』とかいう、うっさんくさい男のことだった。
白髪に髭も白くマジシャンのように常にスーツとシルクハットの姿で現れる。髪の色に似合わず、年は五十前半らしく、背筋をぴしっと正して、動きもまだまだキレがある。
そして何より、歌が上手い。
ジュンヤがあの場所で受け入れられているのは、藤川マーベランスが道を築き上げていたからに他ならなかった。
ジュンヤは、この生活を続けていたら将来あのおっさんのようになるんじゃないかと恐ろしく、それ故に、藤川マーベランスのことを嫌っていたのだ。
「で、その絵を書きたいのとあのおっさんに何の関係があるんだ?」
「それはー。おじさまの歌を聞いて、書きたい絵が浮かんだからなの。おじ様の歌は優しーのに、すっごく鋭くて無理やり歌の世界観を頭に流し込まれているようでー、どんどん色んな情景がパッパッって頭の中で切り替わっていくの。その中に、絶対に書きたいっていう絵があったってことー」
上機嫌にそう語ったエマ。ジュンヤは拳に力を入れて感情を抑えるので一杯一杯だった。
藤川マーベランスの実力は誰よりもジュンヤが理解していた。故に、許せなかったのだ。あれほどの人物がふざけった格好や名前で、あんな場所で惨めに笑って歌っている姿を。そして、そんな惨めな人物が、彼女の心に影響を与える歌を歌うことに。
「今日は、それをもう一度聞きに行ったんだー。リクエストしたら歌ってくれたし、お酒も一杯おごってもらっちゃたー」
「そうか……。じゃあ。絵はマーベランスに渡すのか?」
「おじ様に? なんで?」
「なんでって……。あぁ、そうか。誰かにあげるために書いてるわけじゃないのか。ごめん」
「ううん。君にあげるよ」
「えっ?」
「君にあげるために書いてるんだよ? 泊めてくれたお礼だから」
急にそんなことを言われてジュンヤの頭は真っ白になった。
(彼女は、死ぬ前に良い絵がかきたくて旅をして。藤川マーベランスの歌に感動してそれを絵にした。それを、僕にくれるのか?)
若干混乱してきたジュンヤは、鼻につくエマの酒臭さにすぐに、馬鹿馬鹿しくなった。酔って、よくわからなくなっているだけだろうと。
「まぁ、いいよ。だったら、気が済むまで書けばいい。僕にくれるなら、より良いものが欲しいから」
(そうじゃないと、嫌になって破いてしまいそうだから)
「まかせて。完成までのお楽しみだから、絶対にのぞかないでねー」
そう言って、エマは防音室の中に入っていった。
再び静かになった部屋の中。ジュンヤは立ち上がると、外に出て地下バーに向かった。
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