プロローグ

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「『Erlosung(エアレーズング)』一応、実在するみたいだけど……」  10月も終わりに近づいた週末、俺は一人新宿へやってきていた。週末とだけあって、げんなりする程人が多くて閉口する。行きかう人たちの話声がやけに耳につき、ミュージックプレイヤーの音量を上げた。雑音に紛れて聞こえていた、囁き声も音楽に紛れて聞こえなくなった。交差点の向こう側に、テレビでよく見る歌舞伎町と書かれたアーチとその奥のゴジラが見える。ぶるりと身震いしたのはビル風のせいじゃなくて、ここ最近悩まされてる寒さのせいだ。いくら秋が深まったとはいえ、今の俺みたいに冬物のジャンパーを着こんでるやつは見当たらない。ちらちらと感じる視線もこの防寒対策のせいなのも分かってる。でも、寒いもんは仕方ないだろ。舌打ちを一つして、青信号に変わった交差点を渡った。 映画館近くの路地裏に俺の目的地があるらしい。スクショした店までの地図を見ながら、人混みを歩いていく。数度道を曲がり、路地の奥深くへと進む。どんどん薄暗く、重くなる空気に後悔で足が竦みそうになる。でも、ここで立ち止まったら耳元で囁き続けられる言葉を理解できてしまう。本能がそれだけはだめだと告げるままに足を進めると、ぱっと視界が開けた。 ビルとビルの隙間が形成する迷路の先にぽつんと、忘れ去られたような開けた土地があった。そこにはビルの谷間に埋もれるように、歌舞伎町には似つかない二階建ての家が建っている。日の光を浴びるその空間はキラキラと妙に明るく見えた。いくら日が差しているからってこんなに明るいものなのか? でも、早くここに入りたいと本能が告げているのも本当で。ゆっくりと一歩足を踏み出した。敷地内に足を踏み入れた瞬間、肩に圧し掛かるモノの重さが増す。まるでこの先には行かせないとばかりに身体が重くなっていく。どんどん増す重量にいよいよ足が止まりそうになる。 あと、少しでドアに手が届くのに……。 がくん、と膝をつく。イヤホンが落ちて、耳元の囁きが脳を犯す。ああ、だめだった……。 ガチャリ…… 「大丈夫ですか」  ドアが開く音と共に、低く心地いい声が耳に届いた。その瞬間、身体が少し軽くなった。それと同時に、耳元の声が止まる。え……なんで?呆然と見上げる俺の目に映ったのは、開いたドアから半身出してる長身の男の姿。なんの感情も映さない三白眼に見下ろされ、我に返った。 「あの、ここって『Erlosung』っていう……」 「お待ちしておりました。どうぞ」 「え、俺予約とか何も」 「ええ。ですが貴方が来られるのはわかっていましたので」  それだけ言って男は俺に背を向ける。言葉が妙に硬く、言わされているように感じるのはなぜだろうか。いや、それよりも、だ。 「わかってた……?」 「入らないんですか」  男はじっと俺を見下ろしながら、表情を変えずに問うてくる。とりあえず、いつまでも地面に膝をついているわけにもいかない上に、ここが目的の場所だと言うのなら入るしかないだろう。のろのろと玄関をくぐった。中は何の変哲もない一軒家の廊下が広がっていた。用意されていたふかふかのスリッパを履いて男の後をついて廊下を歩く。高い身長に見合った体格の男は、上下黒の服を身に纏っていた。緩く後ろに流した朽葉色の髪が結われていて、歩くたびに左右に揺れる。おそらく彼が掲示板で言われていた“助手”なのだろう。確かに占い師の助手というよりは、ヤクザと言われた方が納得できる成りをしてる。そんな事を思っていると廊下の奥にある部屋の前で、助手は立ち止まった。それをわかっていたかのように、ドアの向こうからどうぞ、と声がした。 心の準備なんてする間もなく、助手が部屋のドアを開ける。ふわりと、心地いい香りが漂ってきた。薄いレースの布で部屋の中ははっきりとは見えないけど、うっすらと誰かがいるのは見える。 ちらっと助手を見上げると、入らないのか?とばかりに顎をしゃくられた。空間を仕切る薄布をくぐって室内に入る。 室内はシンプルな客間になっていた。カーテンは閉め切られていて、照明の替わりに大ぶりのキャンドルが何個か灯されている。香りはこのキャンドルからしているらしい。部屋の真ん中にテーブルと、手前に2人掛けのソファが一脚。テーブルの奥の1人掛けのソファには息を飲む程の美青年が座っていた。 青年は長い前髪の間からじっと俺を強い瞳で射すくめる。捕らわれたように、その透き通った青い瞳から目が逸らせない。彼ははぁ、と息をついて瞬きをした。 瞬きの後、俺を見る瞳はなんの変哲もない焦げ茶になっていた。見間違い、だったのか? 「なんで入っちゃったかな」 「は?」 「とりあえず座ったら?」  すっと、紳士的にソファに座ることを手で示される。おずおずとソファに座って部屋の主と対峙した。目の前の彼が噂の占い師なのだろう。アシメントリーの前髪は長く目元に影を作っていた。明るい髪色にシックなスーツを身に纏う彼はなるほど、確かにホストと言われた方が納得できる。 メディアに出たらいいのにという意見も分かる。 「だめだろ、興味本位にホテルムーンフィッシュに入ったら。あそこは本物の心霊スポットなんだからさ。ホテルに入るだけならまだなんとかなったけど、307号室にまで行ったね?」  頭を殴られたような衝撃を受けた。占い師の口から出たホテル名は確かに俺が行った廃ホテルで、部屋番号まで当たっていたから。背中の毛穴が開いてじわりと変な汗がにじむ。 「あそこで殺人事件が起きたのも本当。調べなかった?30年位前に起きたラブホ殺人事件。一般的には痴情の縺れって話になってるけど、実際はそうじゃない」 「……カルト教団の儀式……?まさか」 「そのまさか。だからこそ、アンタに憑いてきてるわけだろ?」  じっと、占い師の目線が俺の右肩辺りに注がれる。形のいい眉を寄せ、いやなものを見たとばかりの表情を占い師は浮かべた。 「307号室はね、あの儀式を起点に変質してんの。君達みたいなのをおびき寄せて取り込むために、餌を用意してる。餌に食いついた魚は釣りあげられ次の餌にされる……それを延々と繰り返すってわけだ」 「俺が、次の餌……?」 「そう。本当に釣りあげたい者が掛かるまで終わらない」 「じゃあ俺はどうしたら!!」 「どうしたい?助かりたい?それとも、そのまま餌になる?」  こてり、とともすれば可愛らしいとすら思えるような仕草で占い師は小首を傾げた。どうしたいか、なんて一つに決まってる。 「助かりたい……」 「それで一緒に行った友達が餌になったとしても?」 「え……?」 「ああ、いやごめん。もう、手遅れだね。うん。アンタしか残っていない」  また、占い師の目が青く光る。どこか遠くを見て肩を竦める彼が事も無げに言った事を理解できない。いや、理解したくない。 「まぁ、運が悪かったってことで。アンタは運よくここの事を知れて餌にならなくてもいい道を見つけた」 さあ、アンタはどうしたい?  きらきらと輝く青い瞳で俺を射すくめる占い師は、問うてくる。でも、その目は全てを見透かしていることを確信してしまう。彼はわかってるんだ、俺が自分だけが助かる道を選ぶことを。生唾をごくりと飲み干して、カラカラに渇いた口を開いた。 「助けて、ください」  にこり、と占い師が胸やけする位甘く笑った。指をぱちんと鳴らすと、誰かが部屋に入ってくる気配がした。振り返ると助手の男が背後に立っていてびくりと肩が跳ねる。思い切り見られたらしく、くつくつと占い師が笑う。驚いた原因の助手は何笑ってんだというような顔をしている。 「やっちゃって」 「わかった」  指示された助手の男は俺の肩をぽんと軽く叩いた。その手は分厚いジャンパー越しでも分かるくらい暖かい。ふっと身体が軽くなり、脳内も明瞭になった。開いた口が塞がらない思いで、助手を見上げる。 「これでもう大丈夫」 「え……あ……ありがとうございます……?」 「タカラ、外までご案内頼むよ」  にこりと占い師は微笑んだ。呆然とする俺を助手が玄関まで連れて行こうとする。そんな俺の背中に占い師は言葉を投げかけた。 「これに懲りたら心霊スポットなんて行くんじゃないよ」  次はないから。  サラリと言われた言葉に背筋が凍る。振り返ろうとする俺の背中を助手がそっと押し、玄関から外に出された。ばたんとドアが閉まる。ジャンパーを着ている身体はじわじわと熱を上げていく。不快なだけのジャンパーを脱いでから気付いた。新宿歌舞伎町一角だというのに、雑音がしない。俺は逃げるようにその場を駆けだした。
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