運命の人

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 長すぎる夏休みが終わると、キャンパスに漂う空気には、秋の気配が色濃くなっていた。大教室から見える建物に絡んだ蔦は、赤や黄色や橙に染まり始めていた。時折ひゅうひゅうと風が唸って、私のいる教室のガラスを叩くのだった。  私は大学二年生で、十九歳だった。  教育学部の講義棟は古かった。  年代物の長机や椅子は、片肘をついたり座り直したりする度に、ギッギッと耳障りな音を立てた。教育学部生ではない私は、教職課程に必要な単位を取るために、その講義を受講していた。教室には様々な雰囲気の学生が雑多に集い、いくつもの学部の寄せ集めの集団だと容易に知れた。  定刻より数分早く、紙束を抱えて先生がやってきた。一見しただけでは先生と分からなかった。それほど若かったのだ。後から知ったが、三一歳にして准教授ということだった。彼が教壇の前に立ってやっと、あ、先生なのだ、と分かった。  彼はかなりの痩せ形で、白シャツの上にねずみ色のカーディガンを羽織り、下は黒いスラックスという格好だった。ネクタイは締めていなかった。縁の細い銀色の眼鏡をかけていて、歩くときには少し猫背気味になった。講義開始の時間になるまで、持参するプリントに目を通しているあいだ、彼の右手の人差し指は神経質そうに机をカツカツと叩いていた。  教室に時計は無かった。私が携帯の画面で時刻を確認し、あと一分、と思ったとき、おもむろに彼が左手をかざして腕時計を見た。金属の重たそうな時計ではなく、革のバンドの、少しくたびれたような時計だった。  彼は顔を上げ、教室中を見渡しながら、そろそろ始めましょうか、とピンマイクを使わずに声を張り上げた。少々鼻にかかった、冷たい感じのするハスキーボイスだった。  その瞬間だった。彼と目が合い、私は、ああ、この人だ、と思った。  この人が、私の運命の人だ。  直感でもなく、確信でもなかった。そのような強い感情ではなかった。それは単なる理解だった。目の前にリンゴがあればあ、リンゴだ、と思うように、私は彼をあ、運命の人だ、と思っただけのことだった。  私はこれまで、運命など信じたことはなかった。自分の思考のどこから、こんな思いが湧いて出てくるのか疑問だった。不可思議で、不気味ですらあった。  講義中、私は彼の一挙手一投足に注意を払った。彼が調子の悪いピンマイク相手にぼやいたり、自分の書き間違いに気づいて苦笑したりする度、頭の中でパズルのピースが一つひとつはまっていく感覚に陥った。  つまり、私の気持ちは揺らがなかったということだ。  講義を重ねるにつれ、理解はどんどん深まっていった。  私は特に行動を起こさなかった。九十分間彼を注視し、彼の話にじっと耳を傾けた。それだけだった。  本当に、それだけだった。  キャンパスの景色は一週ごとに移ろっていった。色づいた葉が一枚また一枚と地に落ち、風景は色彩を失い、やがて灰色の雲が空を塞いで、遠雷とともに厳しい冬がやってきた。海から吹きつける風が、容赦なくみぞれやあられを地面や人間へと叩きつけた。  最終講義は試験だった。白紙のA三用紙が配られ、先生が黒板に問いを一題だけ書いた。論述形式だった。  私は細かい字で解答用紙の裏までびっしりと埋めた。八十分程度経ったところで、用紙を持って席を立った。六十分が過ぎれば退出してよいことになっていた。講義室のなだらかな斜面を下っていくと、先生の姿がどんどん大きくなった。  私は初めて彼を近くで見た。  綺麗な男だった。石から切り出した彫像を思わせる、直線的な輪郭の顔立ちだった。私よりちょうど頭一つ分、背が高かった。割れたガラス片のように鋭利な視線が、私を捉えた。  私は何秒かのあいだ、彼を見つめた。彼も私を見つめ返した。先生はゆっくり瞬きをして、視線を下に移した。私もつられてそちらへ目線を落とした。  教卓の上の様子が見えた。彼の両手は解答用紙の束に添えられていた。骨の浮いた、節が目立つ手だった。  今まで気づかなかったのが不思議だった。彼の左手の薬指に、鈍く輝く指環がはめられていた。結婚指環だった。  私の運命の人は、既に誰か知らない人のものになっていた。  私は無言のまま用紙を提出し、何も言わずに教室を出た。  窓の外では真冬の嵐が吹き荒れていた。地鳴りに似た、ごうごうという音がした。この地域では、雪は真横に降るのが普通だった。廊下はぞっとするほど寒く、身震いせずにはいられなかった。彼とはもう、関わり合うことは無いだろうと考えた。春の気配はまだ、遠かった。  私は大学二年生で、二十歳になっていた。
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