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うわっとヴォルガが仰け反った。思ったより彼の近くに飛び降りてしまったらしい。それにしたってそんな声を上げることも無かろう、とクローディアは口を尖らせた。
そして顔をあげると、今度はクローディアが言葉に詰まる番だった。
意外なほど、目の前に立つ青年が大柄でたくましかったからだ。
普段は兄の直属隊で見習いをしているヴォルガを、こんなに近くで見上げたことなどなかった。タイを解いたシャツに覆われた肌は薄青い陶器のようなくせに、その下には躍動的でしなやかな筋肉が隠されていることが見ただけで分かる。それほどに鍛えていた。
思わずまじまじと胸板を観察してしまったクローディアは、そこではっとしてヴァンプの青年から一歩後ずさった。実のところヴェンディの肌以外を間近に見たことがない彼女の耳の先に、ほんの僅かだが紅が差している。
しかし伯爵家令嬢として、騎士団の姫騎士として、彼女はグイッと胸を張った。
「ヴォルガ、このような時間にこんなところで、何をしていましたの?」
さすがに声音に自分の動揺を乗せるような真似はしない。ただし必要以上に感情を隠そうとしたせいか、鈴の音のようなクローディアの声は自然と詰問調になった。
仕える伯爵家の庭に騎士団の見習いが居て可笑しいこともないが、隊舎がある屋敷の表側ではなく令嬢の部屋のすぐ下に一人でうろつくというのも妙な話である。しかもこんな夜半にテラスの陰に隠れるように。
ヴァンプなので日中ではなく夜に行動するのは分かるが、それにしたってこんなところでヴォルガを見かけたことなど今まで一度もなかったのだ。
「お散歩、というには少しこそこそしてましたわね。わたくし、ヘタレ魔王の代わりにこれから出陣するので忙しいんですの。このような夜更けに、正式な手順も踏まずにわたくしに目通りなんて一体何の要件ですの? ことと次第によってはヴォルガ、分かってますわね?」
はっきりおっしゃい、とクローディアの声がキツく響いた。眦を吊り上げた彼女の表情は氷のように冷たく、家中の侍女や使用人たちであれば即座に許しを請うためにひれ伏しただろう。いつもとは様子の違うヴォルガも、きっとと思ったが予想は外れた。
「良かったー! クローディア様はやっぱりクローディア様ですね!」
ヴォルガはパアっと顔を輝かせたのだ。
その表情に意表を突かれたクローディアは思わず目を瞬かせ、次に発するつもりの言葉を飲み込んだ。というより、彼の満面の笑顔に圧倒されてあっけにとられたと言っていい。
「な、なんですのよ、それ……」
やっと絞り出した言葉は、それまでの迫力がどこへ行ったのかと思うほどに頼りない。吊り上がった眉も、詰問のために厳しく、細くなった目もすっかり丸く見開かれ、ぽかんとするしかないクローディアに、ヴォルガはえへへと照れ笑いを浮かべた。
そして恥ずかしそうに視線をそらしながら、実はですね、と彼は口を開いた。
「夕食前にクローディア様が魔王閣下と婚約を破棄したって情報が飛んできて、ちょっと僕心配だったんです。ずっと貴女が閣下を大切にしてらっしゃるのを知ってましたから」
「……え?」
「僕もヴァンパイア一族では比較的由緒正しい家ですし、魔王閣下と伯爵家とのつながりの重要性は理解してます。だからクローディア様が閣下のもとへお輿入れされるのが、この魔王領にとって大切なことだということも分かっていました」
でも、とヴォルガは一瞬ためらったあと、顔を上げた。血色のないその肌が、ほんのり上気しているように見えるのは気のせいではない。まっすぐにクローディアを見つめる黒い瞳が、何かを決意したようにかすかに揺れていた。
「……ヴォル、ガ?」
客観的に自分の声を聴いていたら、なんと情けないとクローディアは頭を抱えただろう。しかし今の彼女にはそのような余裕はない。まっすぐな瞳に射抜かれたように、クローディアは身じろぎひとつできなかった。それほどまでに、彼の瞳には静かな熱がこもっていた。
二人の間に流れる沈黙はおそらくほんのわずかな時間の事だったのだろう。しかしなぜか令嬢の胸はその間にも大きく高鳴っていた。こんなことは、生まれて初めてだった。
心臓の音がうるさくて、なぜかとても気恥ずかしい。この音がヴォルガに聞こえたらどうしよう、と思うと同時に聞こえてほしいとすら思えるなんて、どうかしているのではないだろうか。
――わたくし、こんな、なにかを期待してますの?
クローディアは自問するが答えはない。いや、答えることができないでいた。
つい数刻前まで自身はヴェンディに捧げるのだと固く信じていた彼女にとって、この胸の高鳴りをときめきであると認めることなどできなかったのだ。
ただ、彼女は待つしかなかった。目の前に立つ青年の、次の言葉を。
「クローディア様」
「は、はい……」
恥ずかしいほどにかすれた声でクローディアは答えた。なんと告げられるのだろうと切なく甘い恐怖が彼女の全身を包み込んだその時だった。
「さすがっス!」
「……は?」
「魔王閣下をヘタレ呼ばわりってことは、婚約破棄されたんじゃなくって姫様が婚約破棄してやったって側っすよね! いやー、良かった。僕も思ってたんですよ、今のヘタレ魔王閣下と結婚してもどうせ姫様が苦労されるばっかりでって。よかったよかった!」
「え……、え? ちょっと、ヴォルガ……?」
「隊舎でももっぱらの噂っス。うちの姫様がフラれる側のわけがない、そんな度胸が閣下にあるわけないだろって。ようやく姫様が閣下に愛想尽かしてくれたってことは、逆にいろいろチャンスじゃーんってみんな大喜びっす!」
いくら何でも不敬に過ぎるだろう、とクローディアが目を白黒させていると、にっこり笑ってヴァンプの青年は、はいっとその手に持った包みを彼女に手渡した。紙の包みの中で、ちゃりっと軽い金属の音がする。
「それ、婚約破棄記念っす。じゃ!」
「ちょ、ちょっとヴォルガ……なにこれって、あんたちょっと待ちなさいよ!」
すっかり意表を突かれて言葉遣いもなりふりも乱れたクローディアは叫んだ。理由なんて分からない。しかしさっと踵を返した青年が、ほんの一瞬立ち止まった。何のつもりだとクローディアが問い詰めに近寄る前に、ヴォルガは肩越しに彼女を振り返る。
「もう、鈍感なのは知ってますけど、ちょっとは気が付いてくださいって……」
そう告げた彼の耳は月の灯りが無くても分かるほどに根元まで真っ赤で、それを見たクローディアの頬も紅く染まったのだった。
了
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