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第3話 ある朝、食卓に鉄槌を下す
「困ったもんです……」
「どうしましょうねぇ……」
その日、私は城の厨房へ材料費のことについて打ち合わせに行っていた。厨房長から今年の穀物の値段が上がっている、と申告があったからだ。
厨房の作業台にいくつか並べられた穀物の袋には、どれも生前(?)日本で見たことのあるものに似た粒が入っていて、単位量あたりの値段がメモされている。白くてちょっと半透明なコメに似た粒はキロ3000ギル。まだ皮に包まれていて粒の先に細長いとげのようなものが伸びているのは、いわゆる小麦にあたるのだろうか。これはキロ1500ギル。
うーん、と私は記憶を手繰り寄せる。
日本にいたとき食べていたコメは、白米の状態で1袋2キログラムのものを買っていた。その値段はおよそ1000円。また小麦粉は粉の状態でいくらだっただろう。スーパーに並んだ小麦粉の値段、あれはたぶん1キログラムだろうけど1000円したっけ?
貨幣価値がここと日本では異なることは分っているけど、少し、いや、かなり高い気がする。
「この白いスイラは精製しないで買ってもいいんですが、それでも2000ギルはします。こっちのトウィは粒のまま買ってますが、こねてパンにするには粉の方がありがたいんで。でもそうするとキロあたり2000ギルとなって結構高額なんですよ」
「去年に比べても高くなってます?」
「ええ、今年は気温のせいですかね、穀類が不作らしいんで……」
「なるほど……」
思案顔の厨房長の懸念は分る。
実をいうと、この魔王城の主であるヴェンディは無類のパンや焼き菓子好きなのだ。食事は必ず香ばしく焼き上げたパンが供されるし、執務の合間のおやつはクッキーやマフィンのような甘い焼き菓子を好む。パン自体も固いけれど甘く味付けされているものの方が好きらしい。
それはなぜか。
ここで出される食事というものが、微妙に、いや、絶妙に、マズいからだ。
塩や胡椒の類で味を付けられる肉や魚はまだマシで、焼き加減にさえ注意すればちゃんと食べられる代物が出来上がる。生食できる果物も私的には問題ない。
問題は野菜に関する料理である。
この世界の調味料に難があるのか、世界観的な問題なのか、野菜料理についてはほぼ「煮る」という調理法が適用される。この「煮る」という調理法は煮物を想像してはいけない。「煮る」のだ。ただひたすら「煮る」。
ちょっと腕のある料理人ならこの煮る課程で灰汁をとったり、香草で風味をつけ足したりするけどそれだけで劇的に味が変わるわけではない。ひたすら煮込んだ野菜はぐずぐずのスープ状になるか、それとも形だけは保ったまま肉などの付け合わせとして皿に乗せられるかのどちらかになる。
塩胡椒をぶっかけて食うには食えるけど、塩胡椒味の何か、の域を出ないことが多いのだ。
それほど好き嫌いのない私はなんとか、マズいけど、健康のためと思えば食べられないことは無い。たまにお醤油や味噌が恋しくなるのは、まあ元が日本人だからしょうがないと思う。
けど我儘いっぱいおぼっちゃま育ちのヴェンディは好き嫌いも多く、野菜はほとんど食べない。幼いころからずっとこういう料理で育っているのだから食べられそうなものだけれど、調理したものはおろか生の野菜も食べない。食卓の色どりに使われる果物をちょっと食べる程度だった。
ヴェンディの大好物でほぼ唯一といっていい食材が高騰するということは、財政的にもちょっといただけない状況なのだ。
「どうしましょうねぇ。少々割高でも購入しましょうか」
「必要であれば多少値段が高くても買わないといけませんけど、今年は不作なんですよね。とすると、次の収穫期まではこの値段が続くかもしくはさらに値上がりする可能性もありますよ」
「そこがねぇ、困りましたねぇ……」
うーん、とまた二人で腕を組んで唸ってしまう。
「城主さまの穀類の消費が今の半分くらいになって、他の食材の料理も召し上がってくだされば少しはいいんですけどねぇ……」
「そこですね……おやつを少し減らして、食事をちゃんと摂ってもらう方法を考えれば……」
とはいえヴェンディの野菜嫌いは結構手ごわい。今のままでは多分、のらりくらりと避けて食べないだろうなあということは想像できる。どうにか、今までの物ではなく目新しいもので気を引かないと。
何かないか、と私は厨房の中を見渡した。
「厨房長、これ、鳥のお肉ですか?」
私が指差したのは、保存食がぶら下がっているスペースの一角にある肉置き場だ。そこには日本ではクリスマスシーズンでよくお目にかかる姿をした鳥っぽい肉が引っかかっている。
「鳥のお肉はよく出てきますよね。卵って、あります?」
「ああ、あるよ。ちょっと小屋に行って取ってこないといけないけど」
「んー、じゃああと酸っぱい、めちゃくちゃ酸っぱい柑橘の果物あります? それと、ヤギかウシの乳」
「果物は絞ればあるけど、乳なんて子ヤギや子ウシが飲んじまうよ」
「絞って持ってきてください」
「何するんですか、そんなもの」
肉は食うけど乳は使わないのか。この世界の不思議な習慣にちょっとびっくりしたけど、私は「考えがあるんです」とだけ告げて、頭のなかでむかーーーし覚えたレシピを引っ張り出していた。
翌朝のこと。
私は厨房のスタッフを手伝いヴェンディの食卓の準備を行った。テーブルに並んだもののセットが終わるのを確認して、侍女のナナカにヴェンディを呼びに行かせる。寝起きの良くない彼が起きてくるかどうかとは思ったけど、一緒に食事をしましょうと言伝をしといたので何とかなるだろう。
そう思っていると、廊下から律動的な足音が聞こえてきた。そして寝巻のままではあるけど上機嫌の魔王が姿を表した。
「おはようリナ! 朝食を一緒に摂ろうなんて珍しいじゃないか」
「おはようございます、ヴェンディさま」
人払いをしてから、どうぞと椅子をすすめると彼は素直に従った。しかし機嫌がよさそうだったのはそこまでだ。目の前に広がる食卓にあからさまに表情が曇る。
当たり前である。彼の前に並べられた皿には、見るからに生の野菜と分かるものとそれをパンではさんだサンドイッチ、彩にちょっと焼き目を入れただけのトマトやアスパラといった野菜が盛りだくさんなのだから。
「リナ……朝食を一緒にするのはうれしいんだけど、この料理はいったい……」
「ヴェンディさまのお好きなパンもありますよ。ほら」
「待ってくれ、それには野菜が挟んであるじゃないか」
「おいしいですよ。召し上がってみてください」
「私が普段、甘いパンを好むということはよく知っているだろう? 君と食事できるのは心躍るようだけれど、このパンにはさんだこいつらが大いに邪魔だね」
常に艶やかな微笑みを浮かべている魔王にしては、珍しく眉を寄せて皿を遠ざけようとしている。思った以上に厳しい拒絶反応だ。
しかしそうはさせない。この食事で野菜嫌いを克服し、穀類の消費を少しでも抑えるという目的のためにどうしても食べてもらわなければならない。
「まあそうおっしゃらずに。パンにはさんだものはすべて、私が調理したものです。きっとお気に召すと思いますので、どうぞ」
私はぐいっと皿を押し戻した。
「リナが作ったのかい? それは……」
魔王が逡巡を見せた。好機、と少し遠くの皿も近寄せる。
「そうです。私がヴェンディさまのために切って混ぜて焼いたものです。どうぞ召し上がってください。じゃないと私」
泣いちゃいます。
しおらしそうにつぶやいて顔を伏せる。こういう手段はどうかと思うけど、経費の無駄を省く必要とさらには健康にもかかわることだし、あんまり気にしないことにした。
ウソ泣きまで必要なるかと覚悟はしていたが、顔を伏せた段階でヴェンディの気配が焦ったものに変わるのが分かった。
狼狽したような、言い訳のような、ちゃんとした言葉にならない声が途切れ途切れに発せらている。――ダメ押しだ。
「私が、あーんってしてあげますから」
「なんだって! すぐ食べようじゃないか、すぐ!」
勇ましいほどの宣言で、ヴェンディはお行儀よく椅子に座りなおした。まばゆい笑顔でサンドイッチと野菜が乗った皿をこちらへ渡してくる。それを受け取った私は、ナイフでサンドイッチを一口大に切り指でつまんで彼の口へと運んだ。
「ヴェンディさま、あーん」
自分でいうのもなんだけれど、クソほど甘い声が出た。その声につられるように、彼の口が大きく開けられる。普段は隠れている鋭い犬歯があらわになり、赤い舌が食べ物を待ち受けていた。
そういえば、この間はこの舌に……とそこまでで思考を無理やり停止させる。思い出すな、あれはちょっとしたアクシデントである。わたしは邪念を振り払い、彼の口内へサンドイッチのかけらを押し込んだ。
すかさず顎を押さえ吐き出しを阻止する。もぐ、っと小さく咀嚼するのが手のひらを通して伝わった。
「……ぐっ」
ヴェンディの閉じた口からうめき声が漏れる。慣れない食べ物の味が広がっているせいか、経験はあるから気持ちは分るが吐き出させるわけにはいかない。私は彼の顎を押さえた手に力を込めた。
至近距離でこちらを見る赤い瞳が潤んでいる。叱られた子犬のような、でも燃え滾る炎のような、きれいな色だ。そこへじわじわと涙が浮かび始めた。大丈夫だから飲み込め、というつもりで私がその瞳に頷いて見せると、一瞬躊躇の色が浮かんだが観念したかのように長いまつげが下りた。
ごくり、と喉が鳴ったのはそれからすぐの瞬間だった。
私が手を離すと、ヴェンディはすぐに手元のグラスの水を飲みほした。息が苦しかったのだろう、肩で荒く呼吸をしている。
ちょっとやりすぎただろうか。でもなるべくなら野菜を食べて健康でいてほしいし、あわよくば穀物代を浮かせたいし……。
自分のやったこととはいえ少し後悔をしているうちに、次第に彼の呼吸は落ち着いていく。最後にはあ、と大きなため息が聞こえた。
これは明らかに好ましくない反応だ。やっぱり少し強引すぎたか、もともとの好き嫌いは直せないのか。彼の母親の教育を、少し恨めしく思う。
長く続く沈黙に、だめかとちょっとあきらめたその時だった。
「リナ……」
「は、はい」
「これは……これは……」
震える声にビビっていると、彼はゆっくり振り返った。満面の、輝くような、いやむしろ輝いている笑顔で。
「おいしいよ! 生まれて初めて野菜をおいしいと思ったよリナ。すごい魔法だ! リナは魔法使いなのかい? 魔法で作ったはっぱをパンに挟んだの? どうしたらこんなにおいしいものができたんだろう。君に食べさせてもらったというだけじゃない、口に広がるすべてが、輝かんばかりだよ!」
「そ、それはよかったです……」
「これは? こっちも同じくらいおいしいの?」
「上に載っている白いものも一緒に召し上がってみてください。トマトは切ってありますから」
あまりのテンションに若干引きながら、私は皿のトマトを指さす。ヴェンディはわかったとばかりにスプーンを拾うと、今度は「あーん」を要求することなく自分でトマトを口へ放り込んだ。
「おいしいよ!! こっちもすごくおいしい! なんだっていうんだ、この白っぽいソースは。これが付いているだけで、今まで嫌で嫌でたまらなかった葉っぱやトマトが見違えるようだよ」
きゃっきゃしながらもヴェンディは皿の上の料理を次々口へ運ぶ。あっという間にサンドイッチも野菜のサラダも平らげ、おかわりを要求する始末だ。
「お気に召したようで良かったです。パンがお好きなことは知ってますけど、野菜も一緒に召しあがると一層おいしいと思いません?」
サンドイッチのお代わりとサラダをちょっと皿へのせて手渡すと、待ちきれないといった風にヴェンディはそれらも口へと放り込む。気持ちの良い食べっぷりは、今までの偏食具合がうそのようである。
ひとしきり食事を楽しんだあと、ようやく満足したように魔王はお茶を口にした。
「ありがとう、リナ。とても素晴らしい料理だったよ。こんなものは生まれて初めて食べた」
「こちらのお料理は味気ないですもんねぇ。調味料の問題だと思って、ちょっと作ってみたんです」
「なんだって、これはすべて君が?」
「はい、といっても材料は厨房の皆さんに揃えていただきましたけど」
ふむ、とヴェンディは腕を組む。少し真面目な雰囲気になったその顔は、さすが魔王という風格がある、ような無いような。
「このパンにはさんだ野菜とソース、あとはこのトマトにかかった白いソース。これは恒常的に作れるものかい? リナの手料理という特別感を除いても、同じような味になるだろうか」
「使った調味料はすべて領地で賄えるものです。パンにはさんだ方は塩と胡椒と、酸味の強い果実の果汁、あと卵と油で作れます。トマトの方のソースは、これは好みもあるかもしれませんけどヤギやウシの乳に酸味の強い柑橘の果汁をいれて少し加熱したものです」
――つまり、マヨネーズとカッテージチーズなのである。
貧相な調味料のこの世界で簡単に作れるもの、と浮かんだのがこの二つだった。マヨは肉でも野菜でもなんでもかけて食べられるし、カッテージチーズもしかり。味噌や醤油はさすがにレシピが分からないので、今のところはあきらめるしかない。それがあればもっとおいしいものが、と思うけどこれは仕方ないだろう。
「こんなにおいしく料理が食べられるものなら、領地のみなにも教えてやりたい。至急、調理の方法を公布したいと思うが、異存は?」
「ありません。知的財産権も今回は放棄します」
「ありがたい、さすがリナだ」
にこやかにヴェンディが微笑んだ。
私もふっと肩の荷が下りた気がした。これで穀類の消費を抑えて、つぎの収穫期まで野菜や肉もちゃんと食べる習慣をつければ、今後ほかの作物が不作のときに応用ができる。
頑張った甲斐があったというものだ。
「それにしても、ヴェンディさま。ものすごくおいしいって召し上がってくださいましたけど、そんなに?」
「そりゃあそうさ」
「じゃあ私もあとで食べてみよっと」
「……味見、していないのかい?」
しまった。
ほっとしたついでに余計なことを口走った。だいたいのレシピは頭に入っていたけど細かい分量はほぼ目分量である。こんな味だろうと高をくくって、まともに味を確かめもしないまま食卓に乗せてしまっていたのだ。
私は愛想笑いを浮かべ、給仕のスタッフを呼ぼうと卓上のベルへ手を伸ばした。
「だったら、味見をしてみるといい……」
急に湿り気を帯びた声で耳元でささやかれた。と、思った時には私の体は背後からヴェンディに抱きすくめられていた。
からーん、と皿が落ちる音がした。
これはこの間の二の舞になる。瞬間的に察知した私が体をよじるが、体格差もあるのか魔王の腕がそれを許さない。あっというまに床に押し倒された体勢となり、両腕を頭上で拘束されてしまった。
「何するんですかっ……」
「主の食事を、味見をしないで提供する悪い子にはおしおきがいるかな」
「私が作ったんだから、毒見も必要ないですし味はおおまか把握してましたしっ」
ふふ、とヴェンディの口元が吊り上がる。薄い唇の間からは赤い舌が、ちろりとのぞいた。
やばいやばいやばい。
頭の中で警報が鳴り響く。でも両腕を拘束されている上、長身の彼の体の下ではもがくことも容易ではない。
ゆっくりと近づいてくる彼の眼を見ちゃだめだ、と思っても、あの蠱惑的な輝きに意識を吸い込まれるように目が離せなくなる。
「じゃあ、一緒に味見をしよう……」
「え、遠慮しまっ……」
「私がしたいんだよ、リナ」
ヴェンディは近くに落ちた皿の上に残ったマヨネーズを指で救い上げ、口に含んだ。そしてそのまま、私の唇へ自分の唇を重ねる。
この間の二の舞にはなるまいと固く結んでいた私の唇は、いとも簡単に彼の舌にこじ開けられた。暖かく湿った塊が口内いっぱいに押し入れられ、その圧力に負けた私の唇は彼の舌を受け入れざるを得なかった。
唾液とともに流し込まれるマヨネーズの味は、日本で食べていたものよりずいぶんとまろやかでフルーティだ。そういえば酢じゃなくて果汁をつかったもんな、なんて考えられていたのははじめのうちだけだ。
上下の唇をかわるがわる吸われ、甘く歯を立てられ、そのたびに私の喉の奥からは悲鳴に似た声が漏れる。その声を聞くと、自分の声なのにどんどん私自身が高ぶっていくのが分かった。いつしか、私は自分から彼の舌を受け入れ、それを求めてしまっていた。
唇の裏に舌を這わされ、歯をつつかれ、そして舌同士が絡まり引きあう。身動きできない体で、口の中だけが自由だった。
ねっとりとした彼の舌が引くと、私はそれを追っていく。彼が入ってくればそれを受け入れ、吸い込む。
何度も繰り返していくうちに頭の奥がしびれていく。こんな感覚は、初めてだった。
気が付くとヴェンディに拘束されていた腕は解かれ、その代わり彼の手のひらが私のスカートをたくし上げていた。
暖かい手のひらがむき出しの太ももに触れ、そうっと撫でられる。口の中を犯されたままの私は、なすすべもなくそれを受け入れ――
「城主さま! 国境付近から騎士団長のクローゼさまが謁見したいとおいでです!」
突如室内に怒声に近い音量が鳴り響き、誇張ではなく心臓が止まりそうになった。
はっと目を開けると、心底残念そうなヴェンディの顔がある。びっくりしすぎてどうしていいかわからない私とは対照的に、彼はすぐさまシレっとした表情を浮かべて体を起こした。起きるついでに乱れたスカートを直してくれるが、落ち着きすぎていてなんかちょっと腹立たしい。
「今行く。執務室へ通しておいてくれ」
私を引き起こしながらヴェンディが何食わぬ顔でそう告げると、取次にきた者も承知したように頷いて去っていった。
今のキスの余韻なのか、それとも突然の大声のせいなのか、私の鼓動は依然早鐘のようだ。
「な、なにが……」
「国境に常駐しているクロ―ゼがきたということは何かあったのかもしれないね。ちょっと行ってくるから、リナは落ち着いたら来るといい」
ベッドで待っていてもいいけど、といたずらっぽくささやくと、まだ一連の出来事を整理できていない私をその場に残しヴェンディは去っていったのだった。
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