316人が本棚に入れています
本棚に追加
第4話 ある朝、新たな出会いに震える
一人残された食堂で、私は呆然とヴェンディの去っていった扉を見つめていた。
朝、ナナカにちゃんと結い上げてもらった髪は乱れてぼさぼさだし、高そうな生地のスカートはくしゃくしゃに皴がついてしまった。
唇のはじに手をやると、どちらのものかわからない唾液の跡が指先に触れる。
途端に自分のやったことが恥ずかしくなり、私はぐいっと口回りを袖で拭った。
――求めてしまっていた。
翻弄されるままだった前回とは違う。明らかに自分から彼のものを求めて口の中をまさぐっていた。
そのあとのことまで期待して。
「ぐああああああああああ!」
喉の奥から野太い悲鳴(?)を上げ、頭を掻きむしってその場に突っ伏した。スカートの皴? 乱れた髪? ブラウスの汚れ? んなもん気にする余裕なんてない。
やばいやばいやばい。こんな自分は知らない。
期待したその先のことだって、知識はあれども経験なんてまるでない。このあとどうなるか、何をされるのかなんて想像しただけで頭が沸騰しそうだった。
でもいくら頭を掻きむしっても床をごろごろと転がっても、目の前に迫るドアップのヴェンディと、その熱を帯びた赤い瞳が脳裏から離れない。やわらかい唇の感触も、熱いくちづけも、太ももに這わされた手のひらの愛撫も。
ひとしきり悶えると、もともと体力のない私はぱたりと力尽きて倒れこんだ。
大きく、数回深呼吸をして上がった息を整える。ごろりと寝返りをうつと、視界いっぱいにきらびやかな食堂の天井が広がった。
いくら財政難といえど魔王城は大きく立派だった。領地は広いし抱える人員も多く、そのすべてがあの魔王の配下である。
今朝の料理を食べた後に、領地への公布を思いついたヴェンディの表情は為政者のものだ。多分。日本でも為政者なんて人に会ったことは無いけど、きっとああいったものなんだろうと想像ができた。
そんな彼に認められ、求愛されることは、気恥ずかしいところが大きいけれど決してイヤではない。むしろ、ほんの少し誇らしい気持ちがあるのは確かだった。
いや、訂正する。
どんなもんだ、という誇らしさと自尊心が溢れてくる。このとびっきりの外見によるブーストもあるだろうけど、さっき私の仕事(料理のレシピ開発が仕事と言っていいかどうかわからないけど)を認めてくれたし。
と思うと同時に、仕事に対する責任感もわきあがる。そうだ。さっきヴェンディも落ち着いたら来いと言っていたじゃないか。ベッド云々はこの際明後日の方向へ放り投げておこう。
「こんなことしてる暇、ないってか……」
辺境から騎士団長がわざわざ来るってことは、何か一大事なのかもしれない。ということは、お金が大きく動く可能性もあるしヴェンディの仕事の一大事だ。
あの鷹揚な魔王が変な勢いでお金を使う指令を出す前に行かなくちゃ。
私は勢いよく体を起こした。乱れきった髪はいっそのことと下ろし、手櫛で一つに束ねた。ブラウスやスカートはパンパンとほこりを払ってさっと整える。
そして食堂の扉を開けてヴェンディの執務室へと急いだのだった。
★ ★ ★
ヴェンディは配下の謁見を可能な限り許可して大勢に会い言葉を交わす。その際は城中央の大きな広間――謁見の間で行うこともあるが、そこはあんまりにも広すぎて何かの式典や一軍団ごとに謁見するときとかしか使えない。ほとんどの場合、彼が普段仕事をする執務室で行う。
執務室は謁見の間の真裏の部屋に当たり、正面の扉の他は謁見の間からも出入りができる造りとなっている。
既に来客中とのことだからと判断し、私はこの謁見の間から執務室へと続く扉を開けた。
その瞬間、長い黒髪の女性が執務椅子に座るヴェンディに抱き着いている場面に出くわしてしまったのだった。
「ヴェンさまぁ、寂しゅうございましたぁ……」
「それは悪いことをしたね、クロ―ディア。なにせちょっと最近忙しくてね」
「今夜はおそばにはべらせてくださいませね」
甘ったるい香水のにおいが鼻にまとわりつく。砂糖とふりかけ語尾にハートマークのトッピングをいくつもちりばめたような声で女性はヴェンディにしなだれかかっていた。 彼女の腰には彼のスーツにくるまれた腕が絡まり密着している。二人は扉を開けた私には気づいていないようだった。
ちらりと見えた横顔は、氷のように整っているダークエルフのそれで、ドレス越しにもわかる豊満な体つきがえろい。えろすぎる。フェロモンが駄々洩れして、執務室がむせ返りそうだ。
「お客様にお茶でもお持ちしましょうか?」
充満する香水とフェロモン、そして目の前に広がる光景に耐え切れず私はヴェンディの肩をたたいた。
ぎょっとしたように目を見開く彼と視線が合う。まさか裏から来ると思っていなかったのか、若干ばつの悪い表情を浮かべてヴェンディは女性を膝から降ろした。
「ヴェンさまぁ?」
不服そうな声を上げた彼女は私に気が付くと、艶然とした微笑みをよこす。キリっと引いた真っ赤な口紅がとてもよく似合う、迫力美人だ。魔王の隣にいても遜色のない、いや、むしろお似合いな妖艶さが漂っている。
負けてなるかと私も微笑み返すが、ちくちくとした胸の痛みはぬぐえなかった。
「新しい侍女? の割に良い服着てるわね。この方は?」
「先日雇った私のセクレタリさ、クロ―ディア。さて、まずは仕事の話をさせておくれ。クローゼも、立ち話もなんだしそこにかけてくれないか」
まだ何か言いたそうなクロ―ディアという女性の追及を制し、ヴェンディは入口近くでたたずんでいる一人の男性に声をかけた。ちょっと呆れたような、あきらめたような、不思議な表情をしているその彼が勧められるままソファに腰を下ろすと、クロ―ディアもその隣へひらりとおさまる。
並ぶとわかった。よく似た二人だ。
「妹が大変なご無礼を、閣下」
丁寧に頭を下げるクローゼと呼ばれた男性の隣で、クロ―ディアはぷいっと顔をそむける。長い耳からのぞいた大きな石の付いたイヤリングが揺れた。
「いやいや、こちらこそしばらく二人には会えていなかったから、気にすることはないよ」
「ご厚情、いたみ入ります」
「さて、と」
リナ、とヴェンディが私を振り返る。さっきのばつの悪い表情はどこへやら。食堂で見せた熱っぽい視線もすっかり彼方へ放り投げてしまったかのような、仕事モードの顔だ。
これでは怒るに怒れない。むしろ気持ちを切り替えろと言外に指示されているようで、私は会釈で応えた。
「悪いがお茶の準備を。彼ら二人と、私と君の分だ」
「かしこまりました」
「その方も同席を?」
クローゼが不審そうな声を上げた。そりゃそうだ。初対面だし。
「彼女は私の信頼するセクレタリだよ。この城の財政問題の担当でもあるし、今後のためにも同席させたいと思ってる」
「分かりました……」
しぶしぶ同意するクローゼの隣ではクロ―ディアがあからさまに嫌そうな表情を浮かべていた。しかし主の決定には表立って逆らうつもりがないのか反論はない。であれば、と私は部屋の隅に置かれた茶器を出し四人分のお茶を淹れた。
「で、どういった話だい? 君がわざわざ来るなんてよほどのことだろう」
「実は――」
テーブルにカップを並べお互いに口を湿らせたところでクローゼが語りだしたことは、魔王ヴェンディの領地における一大事が起こる予兆の話だった……。
★ ★ ★ ★ ★
クローゼの報告に私は言葉を失った。
人間界との国境付近は結構その境目があいまいで、些細な小競り合いが絶えないらしい。そのもめごとの多くが、辺境の山沿いゆえの食糧問題だというのだ。
小さな狩りやすい動物は魔王領のものも人間界のものも狩りつくし、僅かな耕作可能地帯をめぐって諍いが起こり、もはやどちらの側から暴発し戦争になるかわからないという。
「戦になれば力の差は歴然。圧倒的に我が魔王軍が勝つでしょう。閣下御自らご出陣いただくまでもなく、我がクローゼ・スラフの騎士団だけで十分対処可能です。ただ」
そう言葉をきったクローゼの視線の先には、すっかり青ざめた魔王の顔があった。長らく平和(?)であったこの魔王領で、戦の火種があるということに慄いているようだ。
対するクローゼという騎士団長は思慮深く言葉を選び、時折話に置いて行かれそうな私にも配慮するように要点をまとめてくれる。
しかし淡々と語られるそれが彼の地の緊迫した様子を際立たせているように感じられた。
「こちらが大勝した場合は人間界からの勇者が派遣されてくる恐れがあります。となるとその際はご出陣いただくか、あるいは勇者派遣の前に人間界の王と会談の場を設け領地の取り決めなどをはっきりさせていただく必要があるかと……」
「戦、か……」
あからさまに震え声のヴェンディはそれでも何とか言葉を絞り出した。
この人は勇者が怖くて人間界へ侵攻しない魔王さまである。戦争になること自体望んでいないだろう。クローゼもその点については理解しているようで、強硬に攻めるという姿勢では話していない。
しかし神妙な面持ちの男性二人に対し、挑発的な表情を浮かべているのがクロ―ディアだ。彼女は口元に手を添え、ふふっと可笑しそうに笑った。
「ヴェンさまに代替わりなされてから大きな戦はすっかりなくなって、人間どもはこちらを甘く見てますわ。対する魔王軍は訓練の時間をたっぷりとっておりますので、練度の差は歴然」
この際ですし、と一同へ視線を走らせる。
「人間界が勇者を送り込む時間の隙を与えず、一気に首都まで攻め落としてしまっては?」
「それは」
「我等がスラフ家の騎士団に、魔王直下の軍勢で総攻撃を仕掛ければ人間などひとたまりもありませんわ」
「……しかし、長く戦をせずに均衡を保っているのだ。人間たちも生きるのに必死なのだろう。なんとか穏便に」
「済ませられようはずもありません。すでに国境付近では諍いが絶えないと申し上げましたでしょ? このままでほうっておけば逆にこちら側へ侵攻されてしまいますわよ」
「クロ―ディア、控えよ」
「他の魔王領から我が閣下がどのように揶揄されているか、ご存知ないわけではないでしょう。ご麾下の軍団長も、長らく戦もなく磨いた武を持て余しております。これは由緒ある血統の魔王たるヴェンディさまのお力、他領へ見せつけるまたとない機会と存じます。ご命令とあればこのクロ―ディア、配下を連れてすぐにでも出陣いたしますわ」
クロ―ディア、とその兄が鋭い声で制止する。当の彼女は涼しい顔をして悪びれた様子もない。ただ目の奥の光は、さっきまで艶然と微笑んでいた美女のものではなく、燃え滾る炎のようにぎらぎらしたものに変わっていた。
魔女――。
唐突に思い浮かんだ言葉にピッタリだと思ってしまった。
私には彼女の実力なんてとんとわからないけど、ここまで自信をみなぎらせるんだから魔王軍の中でも相当な力があるに違いない。騎士団長の妹というおまけポジションだと思っていたら大間違いってことか。
唐突にその炎のような瞳がこちらに向いた。引っ込んでろ、と明確ににらみつけられる。
いわれずとも話の規模が大きくて、ついていけてる自信なんて無いんだけど。
「まあ待ちたまえクロ―ディア。君の力はちゃんと分かっているし戦意は尊重するが、戦となれば双方に被害がでるだろう? いくら戦力に差があろうとこちらも無傷とはいくまい。美しい君に万が一にも傷を負わせたくはないし、美しい我が領土やその先の山々をいたずらに乱すことは、私はしたいと思わないんだ」
「わたくしへの心配などご無用ですわ」
「そうはいかない。君のその人形のようにしなやかな指、宝石のような爪。そしてやわらかく滑らかな肌に傷の一つでもついてみたまえ。この魔王領にとってどれほどの損失か。君に焦がれる男たちは嘆き、私は後悔の嵐に飲み込まれて自害してしまうかもしれない……」
「そんなっ……」
よくもまあいけしゃあしゃあと。要するに戦争をしたくない、というのをあれやこれや言葉巧みにごまかしている姑息な魔王に、私はちょっと、いや盛大に呆れながらお茶をつぎ足した。
「戦は結局は双方が疲弊するんだよ。私はできることならばお互いが幸福に暮らせる道を選びたい。美しく、頭のよい、優しい、そして私の愛する君なら、私の気持ちも分かってはもらえないだろうか」
「……ヴェンさまなんてお優しい!」
ふーん。
一気に白けて私はかすかに鼻を鳴らした。態度に出すのもバカバカしくなる。彼にとっての「アイ」は、なんて都合よくいろんなところに向けられるんだろう。こないだも、今朝も、熱っぽい表情で私に「アイ」を語っていたが、あれだって都合の良い、女にいうことを聞かせたいときのセリフの一環なんだろう。
そう思うと、我ながらびっくりするくらい胸にざっくりと何かが刺さった、ような気がした。
しかしおそろしく耳障りの良いヴェンディの言葉にすっかり惑わされて、あれだけ強気だったクロ―ディアの瞳の炎は一気に消火されてしまったようだった。はらはらときれいな涙をこぼしながら、兄をまたいでヴェンディの胸へとその身を飛び込ませる。それを軽々と受け止めた魔王さまの表情が一瞬だけ変わったのを私は見逃さなかった。
心底ほっとしたような、そんな顔だった。
それを見ると胸の痛みは強くなったが、いくらか気が楽になった自分がいるのも確かだった。理由はなんであれ、戦争っていう物自体は良くないと思うしヴェンディを無駄に怖がらせたくない。
しかも戦なんてやった日には、いくら城のお金が吹っ飛ぶのか分かったもんじゃないから。
「しかし閣下、ご出陣されないとなると国境の紛争はどのように解決されますか?」
「王と会おう。クローゼ、君の館で手配を頼めるかい? 晩さん会に先方を招待する形をとろう」
「御意。食事については我が屋敷の料理人に腕を振るわせましょう」
「わたくしもヴェンさまのお食事を支度しますわ」
ふふん、とクロ―ディアが胸を張る。
「幼いころからヴェンさまとお食事をしてますから、お好きなものはすべて把握しておりますもの」
「それは楽しみだ」
「こんなこと、新参の方にはおできにならないでしょ?」
「……はあ」
重要な外交の場である晩さん会に出す料理でマウントを取られるとは思わなかった。不意打ちに気のない返事を返してしまい、クロ―ディアにクスリと笑われた。
そんなこといったってなあ、とこちらの料理を思い浮かべた。
城に勤める厨房長があのレベルの料理の腕だとすると、騎士団長のおうちの料理人も同じような料理をだすのではないか。であれば、と肉は塩かけて焼いただけ、野菜は煮ただけ、というものが出てくるのだろう。
それは、ひょっとして、ちょっとうまくないんじゃないだろうか。
料理のマズさで交渉が決裂するなんて大人げないことにはならないと考えたいけど、ひょっとすると、ひょっとするかもしれない。
……まあ、人間の側だってどっこいどっこいのマズ飯かもしれないけど。
メニューに対しては少し相談をした方がいいのかもしれない。あとは王という人や人間界がどんな風習をもってどんな儀礼があるかなど、ちょっと調べたほうがいい。
「そうそう、実はつい今朝がた、とてもおいしいものを食べたんだ。人間の王もきっと喜ぶだろうというものをね」
私が声を上げようとしたとき、急にね、とヴェンディはこちらへウインクをして見せる。その腕の中にはまだ黒髪の美女を抱えてむっちりと豊満な胸を押し付けられていたままなのだが。
「……え」
「リナが開発したレシピだよ。おいしいものは気分を穏やかにするからね。会談もうまくいくと思うんだ」
「いや、開発したってほどのことでは……」
「あんなに野菜をおいしいと思って食べたのは初めてさ。きっと人間の王も気に入るだろうし、もしかするとリナはもっと素晴らしいレシピを開発できたりするんじゃないのかい?」
「閣下が野菜を?! リナ殿、それは本当ですか?」
「え、ええ……まあ、ちょっと味付けを変えまして」
「味付けだって? たったそれだけで?」
「そうさクローゼ。君も食してみるといい。きっと驚くよ。ねえリナ、城にあるもので何か他にびっくりするような料理を作れないものだろうか。彼等も食べてみればわかるだろうし」
にこやかに無茶ぶりしてくる魔王に二の句が継げない。単純なマヨネーズとカッテージチーズを伸ばしたソースくらいで過大評価もいいところだ。他にちゃんと覚えている調味料や料理法なんて、たかが知れてる。
おまけに彼の腕の中ではクロ―ディアがすさまじい形相に変化していく。めらめらと燃える瞳の炎は、さっき戦に対して燃やしていたものとはまた別途の色を漂わせていた。
「それは是非お願いしたい。閣下の偏食が晩さん会の際に人間の王にバレたら目も当てられません。威厳もなにも台無しになるとそこだけが心配だったんです」
男前の騎士団長は丁寧な態度だったけど言ってることは絶妙だ。確かにヴェンディの極度ともいえる偏食が晩さん会でバレたら、魔王の威厳もくそもない。人間の側からしたら、魔王おそれるに足りず、と思われてしまうかも。
結果、戦になったらと思考が飛ぶ。
仕方ない。
「承知いたしました。まずは本日の朝食のメニューをこちらへお持ちいたします」
私はしぶしぶそう言って頭を下げると、厨房に連絡を入れた。
最初のコメントを投稿しよう!