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四日目
いつもより少しだけ早い朝の路地。
今朝は少し寝坊してしまったので、時間の節約のためインスタントコーヒーで済ました所、逆にいつもより早い時間に出てきてしまったのだ。
もっとも、待ち合わせ場所である交差点のパン屋の前。
あそこにはいつも、麗華が先に来て待っているから、遅れるよりはいいだろうが。
そんなパン屋の前の交差点を渡り、既に待っていた麗華に声をかける。
「おはよう、麗華さん」
「ええ。今朝は少し早いわね」
「ちょっと早く目が覚めちゃったんだよね」
早く目が覚めるどころか、寝坊したのだが、つい見栄を張ってしまう。
やはり好きな人の前では、少しでも格好の良い男でありたいと思うのが男の性なのだ。
「そう」
そんな僕の下心を見抜いているのか、いないのか。
それは分からないが、麗華は簡素な返事を残して歩いて行く。
「いつも僕より早く来てるけど、麗華さんは寝坊とかしないの?」
「私は人を待たせるのが嫌いなの。待たされるのは構わないけれど」
「そっか。でもいつも待たせてしまってごめんね」
「待つのは構わないと言ったはずよ」
「でも親切に甘えるような事はしたくない。だからありがとう、麗華さん」
「……構わないわ。待つのは嫌いではないもの」
そう言った時の麗華の表情は、いつもより少し柔らかい感じがした。
昼休みを終えても教室は騒がしいままだった。
なぜなら明日はついに学祭という事もあって、午後の授業は丸っきり準備の時間に当てられているからだ。
学校中がペンキの匂いで包まれていて、釘を打つ音やのこぎりの音など、否応にも気分が盛り上がってくる。
そんな僕も準備に勤しんでいて、今はペンキ缶に刷毛を突っ込んだり抜いたりしながら、合板に色を塗っていた。
出し物を決める話し合い中、僕は飽きもせず麗華を眺めていたので内容は知らないのだが、どうやら僕のクラスは教室で何かをするらしい。
自らのノルマをクリアし、僕は教室内をグルリと見渡す。
探しているのは勿論のこと、麗華の姿だ。
「ええと……いたいた」
教室の後ろ半分に集められた机の群れ、その陰に黒い塊を見つける。
このクラスに黒い塊になるような人間は麗華の他にいないので、たぶん合っているだろう。
足取り軽く近づいていくと、ベランダと教室との段差の場所に麗華が座っていた。
何かをするでもなく、ぼんやりと空を眺めている。
「何してるの? 麗華さん」
「外の風を浴びているのよ。ペンキとシンナー、木くずに接着剤の匂いで気分が悪くなりそうだったから」
「苦手……いや得意な人は少ないか」
「そうね。好んで吸いたいとは思わないわ」
段差の上で三角座りをしている麗華は、そう言って後ろ髪を払う。
孤高の麗人。
誰が言い始めたか分からないが、そう呼ばれるようになってから麗華はさらに近づきがたい雰囲気になった気がする。
もっとも、印象なんて他人が勝手に決めた固定観念みたいなもので、本人は何も変わってはいないのだろうけれど。
「佐藤君」
「うん、何かな麗華さん」
「座らないの? それともずっと立っている理由でもあるのかしら」
そう言って麗華は隣のスペースに目をやる。
ガラスの引き戸一枚分のスペースしかないので、もしも僕がそこに座れば、まさに肩と肩が触れ合ってしまうような距離だ。
緊張しない訳がないし、こんな美人の隣など気が引ける。
しかし誰でもない。
麗華が隣に座れと言ったのだ。
男として、据え膳は食わねば損なのだ。
「いいや? では失礼します」
緊張でなぜか敬語になってしまいながら、僕は麗華の隣に腰かける。
少しでも大股に開いてしまえば、麗華と太ももと太ももが密着してしまう、そんな距離。
激しく鼓動する心臓の音が、麗華に伝わってしまいそうだ。
「佐藤君は楽しみ?」
「え?」
僕が体育座りをしながら縮こまっていると、麗華がそんな事を聞いてくる。
素っ頓狂な返事をしてしまうと、麗華が改めて聞いてくる。
「佐藤君は学祭楽しみ?」
「勿論だよ。学校中が何だか楽しい雰囲気に包まれているとさ、何だか自分まで楽しくなってくる。そんな気がするんだ、僕は」
「そう。素敵な考え方だわ」
「麗華さんは楽しみじゃない? 学祭」
僕が聞くと、麗華は少し考えるように視線を落とす。
そして「分からないわ」とつぶやいた。
「それじゃあさ、明日は僕と回ろうよ。焼きそばにたい焼き、チョコバナナに綿あめ。きっと明日は楽しいで一杯になるよ」
「そんなに食べきれないわ」
「麗華さんが食べきれない分は僕が食べるよ。だから明日は楽しい一日にしよう、一緒にさ」
「それもいいわね」
麗華はそう言って立ち上がる。
そして教室内へ戻り、こちらへ振り返ってくる。
相変わらずの無表情だが、いつもよりは声色が明るい気がする。
という事は麗華も少しは乗り気になったという事だろう。
「少し冷えてきたことだし、戻りましょうか」
「そうだね」そう言って僕も立ち上がろうとしたその瞬間だった。
「キャア!」
そんな悲鳴と共に、つんざくような音が間近で聞こえる。
反射的に目をつむると、何やら頭上からパラパラと破片が降ってくる。
それを乱暴に払うと、指先にチクッという痛みが走る。
目を開けると指先には、小さなガラス片が突き刺さっていて血が流れ出てくる。
「ガラス? 何で……麗華さん!」
自分には割れたガラス片が飛んできたのだ。
ならば隣の麗華は――。
まず目に入ったのは窓ガラスから突き出ている棒。
たぶんだが廊下で塗装と組み立てをしていたオブジェだ。
そんなオブジェの先端はペンキではない赤色でべったりと染まっていて、その下。
身を乗り出すように、窓枠に麗華がもたれかかっていた。
ベランダの窪みには赤の湖と滝が出来上がりつつあった。
何が起こったのか、想像に難くなかった。
何らかの理由でオブジェが麗華の頭に激突し、麗華はその衝撃のままガラスを突き破ったのだ。
予想していたのならばまだしも、突然そんな事になっては咄嗟に対応もとれまい。
僕は首筋からガラス片が生えだした麗華を、ただただ呆然と眺めた。
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