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全く状況が把握できない。
ここが市内でも有名な名門大学の研究室であることも、この二人が何故自分の名前を知っているかも、おまけに、なんで自分がこんな所にいるのか、なんてどう考えてもわからない。
大体自分はただの公務員で、五時まで仕事をした後ちょっとしたトラブルで残業を余儀なくされたけど、普通に職場のある七階からエレベータに乗って一階のロビーに降りたつもりだったのだ。
それに今日は婚約者であるところの恋人と夕食を一緒に、なんて約束もあって。
「あ、今何時?」
やばい、七時半にはいきつけの店で待ち合わせだったのに!
「六時半だよ」
早瀬の頬を抓っていた輝が時計を指差して言った。
「え?」
何故だ? 自分は六時四十五分に席を立ったはずなのに? 職場の時計は日本の標準時に勝手に揃ってくれるという正確なもの。進んでいるはずなんてない。
普段腕時計を付けることをしないひかるは、携帯の時計を確認する。
まずい、既に七時を回っている。
職場からなら二十分もあれば着くけれど、大学からとなるとバスを乗り継いでも一時間はかかる。
「遅れてるよ、その時計! あーもう絶対遅刻だ、紀子に怒られる!」
「遅れてないですよ。学校のチャイムと連動してるし、チャイムは正確な時間を伝える為に電波時計になっていますし」
輝が早瀬から手を離し、真面目な顔で言った。
と、同時に早瀬も席を立つ。
そしてソファの位置から対角線上にあるドアの向こうに消えていった。
「それじゃあ、そろそろ本題に入りましょうね」
とりあえず電話で遅れることを伝えようとしたひかるの手を、輝はそっと制した。
「電話は、繋がりませんよ。恐らく圏外でしょう?」
言われて見ると、確かに表示は圏外となっている。
「建物のせいではありませんし、ここは先ほども言ったように地上一階です。でも、あなたのその携帯電話の回線は繋がらないんです」
言われた意味がわからない。
「はい、資料」
いつの間にか戻ってきた早瀬が、青い表紙のファイルを輝に手渡した。
明らかに自分より年上と思われる早瀬が、こんな年端も行かない少年の助手、という図も不思議には思える。
自分の置かれているこのわけのわからない状況のことを考えるよりも、目前の奇妙なカップルのことの方が気になるのは、現実逃避なのかもしれない。
「関谷ひかるさん。明るいという字を書いてひかるって読む。変わったお名前ですね?」
「あ、うん。祖父さんの昔憧れてたタレントがひかるって言うらしくて、親父が祖父さんのご機嫌取りでムリヤリひかるって読ませたらしい」
「そうですか。でもこちらではあきらさんですね。そのまま同じ字であきら、って」
「は?」
「んー。ま、いっか。こちらの話は後にしましょう。先に状況を把握していただかないとね」
ぱたん、とファイルを閉じて輝がアホ面をしているひかるに柔らかな笑顔を向ける。
「あなたはね、断層にひっかかってこの別の層に流れ込んでしまったんですよ」
「……」
「簡単に言うと時間ケーブルの断絶事故、かな。まあでもちょっとしたずれだから殆ど元の世界と変わらないでしょうけど、それでもずれはずれだから。今あなたは元の世界のほんの少し層のずれたココに来ちゃったんです」
時間の研究をしている、と言った輝。
その研究結果が今の言葉なら、きっと自分には何百年かかっても理解できる研究ではないだろう。
ひかるはそう思って、アホ面を引き締めることもできないまま輝を見つめた。
「まあ、ここではよくある話なんですけどね。どうも、ここって断層地帯らしくて。こないだの東日本大震災あたりでずれちゃったんだろうねえ、きっと。今回みたいなケースはほんと、しょっちゅうあるし」
「何分くらい?」
早瀬が輝に訊く。
まるでそれは「後何分くらいでごはんが炊ける?」と訊いているような雰囲気で。
「んー、大きく見積もって三十分。ひょっとしたら十分くらいかも」
「じゃあリミットは240時間くらいか?」
「最大でね。けどまあ216時間程で見とかないと、いざって時にやばいしね」
「いけるか?」
「誰に訊いてるの? ヨユウだよ」
唇の端で笑いながら答えた輝の表情は、どこからみても十五歳には見えない。
「じゃあ、関谷さん。一週間ちょっと、こっちで我慢しててね」
「は?」
「一週間くらいで戻せると思うから」
「輝。言葉が足りてない。こいつ、アホっぽいから絶対わかってねーよ」
「また早瀬はそういう悪い言葉を使う。仕方がないだろう、理解が難しいのは。ひかるさんの世界では時間学っていう分野すら確立されていないんだから」
「でもアホはアホだろ? 実際この顔見てやれよ。わかってるわけないって」
「そういう単語を使わないの! ごめんね、関谷さん。どこの辺りが理解できてない?」
「……全部。最初っから最後まで、何言ってるか、わからない」
ひかるは素直に答えた。
だって、素直になるより他にどうしようもない。
輝の言った言葉を一体どう理解しろと言うのだ?
「んー……そっか。えっと、じゃあもちょっと身近なものに例えてみるね」
輝はそう言って、ファイルされていた紙の裏側に、ドラえもんのイラスト入りシャープペンシルで何やら描き始めた。
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