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「今のトコ、僕の研究でわかってることを身近なものに例えると、時間軸ってのは同軸ケーブルみたいなものなのね。で、この軸を中心に平行世界がパイ生地のようにいくつもの層をなしてるんだ。一応これが断面図だと思ってね。で、この層のこの時間はこんな風に過ぎているけど、別のこの層ではまた少し違った時間が流れてる」
シャープペンシルで絵をなぞりながら輝が説明するが、ひかるには言葉一つ一つはわかっても、その意味が全く理解できない。
「それで、このケーブル状の時間軸に何らかの現象が起きて、流れてる一部分が圧迫されることがある。それが今回のような断絶事故ね。で、時間の流れってのは常に一定なんだけど、ケーブルが圧迫されるとその流れが一時的に停止するのね。でもそれは自然の流れの中の状態だから、復旧すればそこに生きている者には何もなかったように動きはじめる」
少年の言葉はひかるのよく知る日本語である。
が、その中身は一体どこの言葉なのか全くわからない。
「トラブルは、完全な圧迫で分断されてしまった時には何も起こらない。こうやって微妙な圧迫によってほんの少しケーブルが傷付いた時に起こるんだ」
輝は早瀬が飲んでいたアイスコーヒーのストローを手に取り、指先で軽く押し潰した。
「こうやって、時間が流れるだけの隙間はあるけれど、何らかの現象で傷がついてしまっている層から別の層へと一時的に流れ込んでしまうことがある。これが今回の現象だね」
いや、ストローを潰された状態を示されても、それと現状とは繋がらないんですが。
ひかるは相変わらずのアホ面で輝の指先のストローを見つめた。
「まあでも、まだ今回はそこまで大きな亀裂じゃないですよ。たぶん流れの隙間にたまたまあなたがひっかかっただけで、他の何も流れ込んできていないし。恐らくあきらさんの時間は止まっていると思われますしね。これであきらさんの時間がそのままこちらで流れていたら、きっとあなたという存在は消滅していたでしょうから」
「消滅?」
「そ。ほら、ドッペルゲンガーに出会うと死んじゃうって話、聞いたことないですか? まさしくソレですよ。時間の流量にケーブルが耐えられなくなって、自然がその存在を無かったことにしてしまおうとするんです。まあ、滅多に起こりませんけどね」
ふにふに、とストローを押し潰す輝。
早瀬はストローが返って来ることを諦めた様子で、グラスから直接コーヒーを飲んでいた。
「ケーブルに負荷がかかり過ぎるから、そんなことが起きたなら自然はとっととケーブルを切り替えてしまうんだ。そのために何年かに一度ある大地震や大事故なんかの災害で、流れに負荷をかけている存在をとっとと消してしまうんですよ。だから、ドッペルゲンガーって現象はまず起こらない」
輝は言うとストローを置き、自分のための紅茶を一口飲んだ。
「ひかるさんが普段いる世界はこの、軸の中心に一番近い流れなのね。時間軸の中心に近い程時間の状態は安定しているから、ひかるさんの世界に異世界の流れが入り込むことはまず有り得ない。で、ここもそれ程軸からは離れていないから本来なら安定しているんだけど、ある原因がもとで断層地帯になってしまっているから、ちょっとしたことで他の世界の流れが入り込んでくるんだ。今回みたいなちょっとしたケーブル断絶事故が起きると、よく入って来るんだよ、別の層の生物とかが。で、僕はそれを戻すための研究をしてるってわけ」
「ある、原因って?」
言葉を濁すような輝のその物言いにひかるが反応した。
「僕と早瀬の存在、かな。まあその話について突っ込んだ話をしても今は仕方がないから、その辺は聞き流してよ」
「……」
「って、こんな説明じゃ、だめ?」
そんな、かわいらしく首を傾げられても。
ひかるは輝の少年らしい仕草に、う、と息を飲んだ。
なんだって二十五の自分が十も年下の子供に図解で説明されても理解できないんだろう?
「色気、遣うなよ、輝」
「早瀬! 遣ってないってば、そんなの!」
「遣ってる。俺にもそんなかわいい顔したことないじゃん」
またしても痴話喧嘩が始まり、ひかるは輝の言葉を頭の中で反芻した。
時間の層?
同軸ケーブル?
パイ生地?
頭の中には地層とテレビ放送のケーブルとアップルパイだけがぐるぐると回る。
しかしながら、その三つはどうやっても結びつくことはない。
元々ひかるは理科も料理も得意ではないのだ。
高卒で就職したのだって、これ以上勉強なんてしていられないと思ったからで。
なのに、なんだってそんな自分が大学の研究室で、天才らしき子供にこんなわけのわからない講義を受けなければならないのだ?
「……俺、帰る」
ひかるは立ち上がって言った。
そう、これ以上ここにいても仕方がない。
何がどうなっているのかわからないけど、実際ここはY大学だって言ってんだから、とにかく家に帰ってとっとと寝てしまおう。
そう思ったから。
恋人である紀子には、家から電話すればいいだろうし、きちんと謝って週末にちゃんとフォローのデートをすれば大丈夫だろう。
そうだ、こんなわけのわからない感覚をひきずったままだと、明日の仕事にも差し支えてしまう。
「どこに?」
と、いつの間にか輝を抱きしめていた――というよりはヘッドロックしていると言った方が正解かもしれないが――早瀬が、立ち上がったひかるに声をかける。
「家だよ、家。紀子には後で電話するし。たぶん怒ってもう家に帰ってると思うし」
「どうやって?」
もがいている輝もそのままに早瀬がにたにたと笑いながら更に尋ねる。
「バス、しかないっしょ。Y大からなら直行で帰れるし」
「家、帰れるの? 関谷ひかるの家と関谷あきらの家って、たぶん違うぜ?」
「は?」
「も、放せってば!」
ぜーぜーと息をつき、乱れた髪を手ぐしで直しながら輝がひかるに向き直った。
「この世界ではね、関谷さん。あなたのお父様は市議会議員さんなんです。だから、家も元の世界のようなマンションではなくちゃんとした一戸建て。しかも昨年建ったばかりの新築」
「入ったことのない家に“ただいま”って帰れるのかよ? こっちの“あきら”のこと何も知らないまま“あきら”の両親と生活できるのか?」
早瀬が鋭い目付きに力を込めてひかるを見た。
「それに、何も理解しないままここで生活できるのか? 輝だってとりあえず研究はしてるけど、毎回ずれの原因は違ってるんだ。それを取り除くのにはある程度時間がかかる。輝だから一週間でなんとかできるって言ってるけど、普通のヤツにはそんなに短時間でできることじゃない。おまけにタイムリミット過ぎたら恐らくおまえの存在は時間の流れから消されるんだぞ?」
早瀬の早口な言葉に、ひかるはまたしても理解不能に陥る。
「ちょっと、待ってくれるか? 一個、聞いてもいい?」
愕然としながらも、なんとかひかるは輝の目を見つめて訊いた。
「今、何が起こってるの?」
結局その質問に対する答を輝と早瀬が必死で説明したのだが、ひかるが理解できることはなかった。
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