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(5)  関谷家は普通だった。  ひかるは見ず知らずの家だというのに、落ち着かない、ということもなくいつもの通りに過すことができたのである。  父は出張で留守だったのでまだわからないが、母親はいつもの母親と全く変わりがなく、一人息子のひかるとしては他の誰に気兼ねをすることもなかったし、こちらの“関谷家”も中で生活している人間が同じだからなのか、空気が自分の本当の家と変わりなく思えたから。  ただ何よりも気がかりなのは、ファイルの中身だった。  なんとなれば、こちらでの関谷あきらの恋人が……。 「なんでだ、関谷あきら!」  ファイルに記載されていた名前と写真を見て、思わず叫んでしまう。  竹田朋之(たけだともゆき)。  そう、紛れもなく性別はオトコ。  さっきまで普通に会話していた早瀬と輝がオトコ同士でカップルであったように、こちらの世界での自分までもがそんな関係を持っているなんて!  想像できなかった。  今までそういう関係のある人間は回りにいなかったけど、とりあえず自分に害がない限りはニュートラルな考え方ができているとは思っていた。  別に自分は女の子にしか興味が持てないし、それと同じ感覚で同性にしか興味が持てない人間がいたとしても、偏見を持つつもりはなかったし。  だから輝たちのこともそのまま受け入れられたのではあるが。  とは言え、自分が当事者となると話は別である。  自分の身に起きていることのどんな事実より、そのことだけがひかるには気になってしまったのだ。 「じゃ、行ってきます」  朝目覚めて、一番最初に目に付いた天井の色がいつものそれではないと気付き、前日のあのわけのわからない事実が現実であることを思い知る。  けれど、妙に落ち着いた気分でいつものように支度をし、いつものように朝食を摂り、いつものように母の弁当などを持って家を出ようとした自分にも、かなり驚く。  根っからの真面目人間であると自負しているひかるは、仕事をサボるという感覚が理解できない。  故に、今までも有給休暇を年にほんの少し取るくらいで、いつもいつも同じ道を同じように出勤していた。  だから、今日も同じように出勤しようとして。 「明、どうしたの? 今日、飲み? 車は?」  安心したことに、元の世界での自分のうちであるマンションは角を一つ曲がった処にあり、会社までの道順に困ることもないだろうと思えたひかるは、母親に呼び止められて振り向いた。 「え?」 「飲んで帰るなら言ってよ。お母さん、晩御飯作るトコだったわ。いらないのね?」 「なんで?」 「あら、だって車乗ってかないんでしょ?」  きょとん、とした母親の言葉に、玄関の横にある車へと目をやった。  ダークブルーのレガシィだ。  確かに買うならこれが欲しいと思っていた車であるが、まさか……。 「これ、俺の?」  アホ丸出しな質問をしたひかるに、母親は首を傾げた。 「何言ってるの? 明、あなた熱でもあるの? 先月出たボーナスで買い換えたばっかりじゃない」 「えっと、うん。そう言えば、そうだっけ? ごめん、俺ちょっとおかしいかも」 「大丈夫? お母さん、送って行こうか? そんなんで車運転しても平気?」  げ、お母さん運転できるんですか?  思わず訊きそうになったひかるは、とりあえず思いとどまった。  運転できるなんてハナシは一度も聞いたことないし、うちにあるエスティマは親父か俺しか運転することなんてない。  いつだって“お母さん、地図見るの苦手ー”とか言って親父の隣で寝ているくせに。 「い、いや、大丈夫。運転、してくよ。えっと、ごめんけどカギ、取って来て」  さすがに自分でも車のキーがどこにあるかなんて知らない。 「はいはい。もう、いつもは何を忘れてもキーなんて忘れないくせに」  そんなん、知るか。  俺は車なんか持ってない!  ひかるはどうやら“あきら”のものであるらしいレガシィを見つめて溜息をついた。  こっちの生活水準はかなり高い。  さすがは“市議会議員”というか。  だいたい親父が“市議会議員”だなんて、一体何がどうなったらそんなことになるんだか。  ひかるの本来の父はただの一サラリーマンである。  一応“部長”なんて役職に就いてはいるし、母が完全に専業主婦でいられるくらいには甲斐性もある。  しかしながら、一戸建てはとうの昔に諦めたと言っていたし、いつだって家計簿とにらめっこしていた母の姿は記憶にある。  それがどう転んだらこんな市内中心部に新築の家を建てたり、一人一台車持ってそれを乗り回す、なんて優雅な生活ができるようになるんだ? 「はい、明。じゃあ、気を付けてね」  茫然としながらも母親に見送られると、ひかるは憧れていた“自分の車”というモノに乗り込んでとりあえず出勤したのであった。
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