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(6)  仕事はつつがなく終わった。  勿論連続性のある仕事については微妙に悩んだりする部分はあったものの、基本的には同じ仕事である。  何とか勤務時間を終えると、体調不良を理由に残業はご辞退させていただいた。  どうやら親父が“市議会議員”であるという話は上司への威光になるらしく、ひかるの定時上がりはあっさりと認められたのである。  まったくもって羨ましい話である。  普段のひかるにとっては、定時上がりなんてことは殆ど有り得ない。  今回結婚話が持ち上がってからは、それを理由に何度か上がらせてはもらったものの、上司がやたらと嫌味を言ってきて気分が悪いことこの上ないのだ。  しかしながら、問題は仕事ではなく、会社を一歩出た瞬間に待ち受けていた。 「明! おまえ、ケータイどうしたんだよ?」  地下にある駐車場に着くと、あきらのレガシィの横には彼の――そしてどうやら今現在の自分のコイビトである処の人物、竹田朋之が立っていたのである。 「昨夜も今朝も全然繋がらないし、家の電話番号聞いてなかったこと、すっげー後悔したよ!」  真剣な眼差しで言われ、ひかるは自分の記憶を辿った。  元の世界のどこかで見たことのある気がしたのだ。 「あ」 「明?」 「山科食衛の営業マン!」  思い出した。  隣のビルに入っている食品卸会社の営業マンである。  ひかるの勤めるY市役所とは地下駐車場を共用しているので、たまに社用車で動く時などに出会ったことがあり、恋人である紀子が昔コンパしたとかでちらっと話をしたことがあったのだ。 「だからどうした? 別に会社終わってるんだからいいじゃないか。いつものように呼べよ」  辺りに誰もいないのを見計らったように、朋之はひかるの腰に手を回してきた。 「待て。とりあえず、待ってくれ」  オトコなんかに腰を抱かれて喜ぶひかるではない。  慌てて朋之の腕から逃げるように腰を引き、 「移動、しよう」  車の中へと乗り込んだ。  が。 「あ、ああ。いいけど。誰もいないんだから、別にいいじゃん。いつもいつも人目を気にするんだから、明は」  言いながら、当然のように朋之が助手席へと座り込む。 「え、何で?」 「何が?」 「おまえも乗るのか?」 「当たり前だろ! おまえ、何? 俺んち行くのに俺乗せてってくんねーの? 俺には電車で帰れって?」  げ。  家に行くのか?  それってなんかヤバくないか? 「明、何か怒ってる? 俺、昨日何か怒らせるようなこと、したか?」  訝った朋之は、ひかるの顔を覗き込んできた。 「昼メシ、普通に喰ったよな? 俺昨日は残業で、ついでに“一休”に商品届けに行かないといけないって言っといたよな?」  知らん、そんなこと。  興味もない。  と、思いつつも、ひかるは大きく息を吐き、 「すまんが竹田君。キミにはちゃんと話しておかないといけない話がある」  ひかるとしては精一杯真面目な声で言った。 「……たけだ、くん?」  思い切り、嫌そうな顔をして朋之が反芻する。 「ああ、そうか。……朋之?」 「訊くな、ばか。おまえ何? マジで怒ってる……って感じじゃないな。どうかしたのか? おかしいよ、おまえ」  そりゃおかしいだろう。  恋人であるという“あきら”とは別人なんだから。 「えっと、さ。紀子も呼んでいい?」 「はあ? 何だよそれ! 紀ちゃんまで巻き込んでんのかよ?」 「いや、巻き込みたいんだ。俺一人、おまえ一人じゃあちょっと身のキケンってのを感じるんで」 「明?」 「ごめん。ちょっと、マジで話しとかないといけないって思うからさ」  こんな状況、一体どうすればいいのだろう?  逆のことを考えたらひかるは心苦しくなった。  実際自分が紀子といて、二人きりで食事しようって時にたとえ同性(この場合、例えるなら同性だろう)であっても彼女が友達を呼びたいなんて言ったら、ショック以外の何物でもない。 「……いいよ。紀ちゃん、呼ぼう」  それでも朋之の口からその言葉が出た時、“あきら”がこの男を好きになった気持ちが少しだけわかったような気がした。  きっとどこまでも優しいのだろう。  自分の気持ちよりも、こうやって苦しげな表情の恋人の気持ちを最優先してくれる彼の、その器の大きさを感じたのである。
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