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(7) 「どしたの? 痴話喧嘩?」  三人がよく利用しているというカフェ、“グリーン・ノート”で気まずいながらも二人で待っていると、明るい声が響いた。 「紀子……」  ひかるは思わず泣きそうになる。  つい一昨日、そう、一昨日一緒に夕食を楽しんで家まで送り届けたというのに、もう何日も逢っていなかったような気分だ。 「やーねえ、もう。あたし、電車乗る直前だったんだよお。もう、喧嘩するたびにあたしのこといつも巻き込むんだから。あ、ダージリンティね」  真っ白いコート――元の世界だとひかるが買ってやったものだ――を脱ぎながら、紀子は店員に注文してひかるの隣に座った。 「で? 今回は何? 明が何とかクンに色目遣ったとかでまた朋くんが拗ねてるの?」  パコ、とシガレットケースを開け、悠然とタバコを吸い始めた紀子に、ひかるは目を瞠った。 「た……タバコ?」 「ん? それがどうかしたの?」  ひかるの恋人である紀子は非喫煙者である。  ひかるも煙は苦手なので、二人の間にタバコという小道具が入ることは今までに一度もなかったのだ。  この紀子の行動はひかるには脳天を直撃されたくらいのショックだった。 「あきら?」 「おかしいんだよ、今日のコイツ。さっきからずっと」  訝るような目をした紀子が朋之と目を合わせた。 「……二人共、聴いて欲しいことがあるんだ」  早瀬はこの二人には話しても構わないと言った。  それだけ身近だから、だろう。  だから、この二人にはきちんと話しておく方が、二人のためにはいいだろうと考えていた。  それは青いファイルを見た瞬間に決めていたことだった。 「なあに? 朋くんと結婚したいから仲人でもしてくれっての?」  灰皿にぐりぐりとタバコを押し付けながら紀子が笑う。 「だったら先に、あたしにカレシでも紹介してよね」 「え? 紀ちゃんってまだフリーなの?」 「そおよ。悪い?」  紀子の言葉にひかるは少しだけほっとする。  恋人がいないのなら、せめてこちらの世界にいる間だけでも自分がそれになれるではないか! 「まーったく、シュミの合わない男は山ほどいるのに、理想の男ってのにはぜーんぜん出逢えないんだもの。イヤになっちゃう」 「紀ちゃん理想高いからなー」 「あら? そんなことないわよ。ちゃんとしたトコで仕事してて、あたしより背が高くて、あたしがやることを総てはいはいって聞いてくれるオトナってのが条件なだけだし」 「その最後のが絶対ムリだね」 「なんでよお?」 「紀ちゃんって結構ワガママだからさ、何でも聞いてくれるってヤツはまずいないと思う」 「そんなワガママじゃないわよ。普通よ、普通」 「とりあえず俺はムリだね。夜中に突然“ラーメン食べたいから北海道連れてって”なんて言い出すオンナとは付き合えない」  げ。そんなこと言うのか、こっちの紀子は? 「いいじゃない、そんくらい言っても! 飛行機で飛んじゃえばすぐなんだから。だいたい朋くんは“オンナ”とは付き合えないでしょ」 「オンナとは、じゃなくて明以外とは、だな。俺は明一筋だから」  急にこっちを向かれてひかるは目を丸くした。  “あきら”って音だと全く自分である気がしないので、朋之が自分を向くまでは他人のことを言われているとしか思っていなくて。 「な、明?」 「お……俺は“あきら”じゃない!」  ばちん、とウィンクなんぞをされた瞬間、ひかるは叫んでいた。  違うのだ。  何もかもが、違う。  ようやく気が付いた。  というより、ようやくアリアリと実感した。  ここには自分の愛する“紀子”はいない。  そして、今リアルにこうやって存在している自分は、この目の前の色男――そう、意外にもいい男である――に愛されている“あきら”ではないのだ。  この世界が、自分の慣れ親しんだ愛すべき世界ではないことを、ひかるは実感した途端にどうしようもない恐怖を感じた。  そう、今の今まで全く感じていなかった恐怖だ。  自分を取り巻く総てのものが、普段のそれではないということ。  その事実が急に恐ろしくなる。  どうして?  自分はなぜここにいるんだ?  そして、ここは一体どこなんだ? 「あき、ら……?」 「違う、違う、違う、違う! 俺はあきらじゃない! 俺はひかるだ!」  体中が震えてくる。  そんな自分をまた、客観的に見ている自分もいた。  何でだろう?  どうしてこんなに自分が自分ではないような感覚になるんだろう?  まるで、そうまるで自分の周りにうっすらと膜が掛かっているようなそんな感覚。  ここは、一体どこで、自分は一体どうしてこんなわけのわからないところにいるんだ? 「明、落ち着いて……明」 「あきらじゃ、ないよ。俺……俺は、ひかるだ……」  どうやら興奮して立ち上がっていたらしいひかるは、それだけ言うとふっと朋之の腕の中に気を失ってしまったのだった。
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