斯かる不祥事について 第二話

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斯かる不祥事について 第二話

 まだ、言い返したいことはあったが、対話の相手は先輩であり、丁寧語を交えながらの感情論となると、うまい言葉がなかなか浮かばないものであった。『ですけど、失業者なんて所詮はクズですよね!』頭が少しでも熱くなると、こんな陳腐な台詞しか思いつかなかった。感情的な対話が飛び交うネット上などでは、相手を突き飛ばすための、こんな汚い言葉が頻繁に利用されるのかもしれないが、市民社会に貢献するために存在する公務員としては、口から出してはいけない台詞であるのは間違いない。数秒間にわたり、会話が途切れると、まだ距離感のある二人は、元の冷えた関係へと戻ってしまう。発言する機会をいったん逃したなら、頭を冷やして、再び沈黙に身を任せようと思うのだった。  実りのない会話が一区切りつくと、仄暗い部屋の内部で、次々と場面を切り替え、点滅を繰り返しながら、転送されてくる動画を映し出していくモニターたちに再び目を移すことになる。この頃になると、脳の神経は疲労のために乱れ始め、やがて、その映像の認知をあきらめかけたとき、自分はなぜ警官になったのかと、その若き日の想念に取りつかれていた。  須賀日巡査は高卒ではあったが、両親や当時の就職担当の教師が警察学校への進学を勧めてくれたため、自分の興味にも後押しされて、それに従った。去年の四月に本採用が決まり、この新宿署に配属された。見方によれば、安定した職業として一時は憧れていた、公務員としての勤務が始まったわけである。配属後に行われた研修は、厳しい学習と得意とはいえない体力訓練を伴うものであり、半ば学生気分で参加していた、警察学校での教育期間とは、まったく異なる緊張と充実感を感じたものだった。教官からの苦しい指導を、挫折せずに乗り越えられたのは、自分の低い学歴に対する引け目と、『何とかもう一歩だけ進まねばならない』とする、安定した職業への憧れがあったからだった。配属後、この監視室での業務を命じられた当初は、スピード違反者や悪質な道交法違反者に対して、特に注目するように命じられた。上司からすれば、慣れないうちは見た目だけで違反を判別しやすい道交法違反者を取り締まらせようとの狙いもあったのだろう。善人と悪人の判別には、ある程度の期間にわたり苦慮したが、やがて、短期間のうちに、続けざまに違法行為を犯した、悪質なタクシードライバーを上に報告して、それが検挙へと繋がると、上司から褒められることもあり、ようやく仕事へのやる気が生まれてきた。『法に違反した人間を徹底的に取り締まるのが国家や人民に最も貢献できる正義である』という自分の認識と合っている気がした。  道路上での取り締まりに慣れてくると、今度は繁華街でのトラブルへの対応について教育を受けた。自分が所属している新宿の繁華街には、裏社会に属する人間も当たり前のように関与してくるため、トラブルが起きたと現場に呼ばれた際も、ヤンキー同士の絡み合い、ど突き合い程度の、ただの傷害事件などでは済まされない危険なケースもあり得る。現場には拳銃を所持した人間が複数待ち構えているかもしれない……。当然、最初は軽犯罪と睨んでいても、背後関係を暴いていく中で、暴力団関係者がのっそりと顔を出してくるケースもある。なので、処理できる事件なのか、それとも、最初から関わってはいけないケースなのかを、自分の知識で判断できるようになれ、とそう教わった。要は、警察権力にも全ての不条理を解決するには、その手数に限界がある、ということだろう。  それ以降、夜の街での酔客同士のトラブルや、違法薬物の闇取引とも思える、怪しげな対話を見かけても、すぐに上司の元に走っていくのではなく、まずは、近くに待機している、なるべく親しい同僚や先輩の意向を伺うことにした。都民の違法行為の全てを取締るために、高性能の監視カメラを設置して、確立したはずのシステムが、裏社会の怪しい動きをピンポイントに捉えても、自らの安全を確保するために、あえて見逃さねばならないケースが生まれてしまうなんて、皮肉を通り越して、もはや滑稽である。財布の中に一万円紙幣なんて、ほとんど入ってなさそうな、しょぼくれたタクシー運転手の軽い交通法違反や、怖いもの知らずの学生たちが、改造バイクに乗って起こしたスピード違反については、ほぼ100%検挙されてしまうというのに! 組織内における、こうした不可解な判定の繰り返しは、この仕事が本当に庶民の暮らしを助ける、正義や平和といった概念に繋がっていくのか、という強い疑念を生み出していく。毎日、この監視室で長時間にわたり、自意識が朦朧となるまで勤務していると、どこか自分を洗脳させようとする何者かの意志を感じてしまい、将来への明るい展望などは、時間の経過とともにまっさらに、かき消えてしまい、帰路につく頃には、毎日同じような、『これでいいのだろうか?』という、暗い考えに行き着いてしまうのだった。  動きの重い心臓の音にも似た、気味の悪い音を立てながら動く時計の針を何度となく目で追った。その度にそんな行為の無意味さを感じて、もどかしくなった。自分はまだ時計の針の上手な進め方を知らないらしい。ベテランの監視員なら、一日二度ほどわき目に時計を確認するだけで、その針はすでに帰宅時間の午後五時を指すのだろう。本心はもうとっくに帰宅したいと感じている。一日中、大衆の行動をくまなく見張るために設置してある、多数のモニターと、際限のないにらめっこを繰り返すだけ。こんな仕事を、もう丸一年以上、毎日のように続けている。この単純極まりない作業について、ミスとかヘマとかいう概念があるのかどうかさえわからない。ただ、監視の途中で気分が悪くなり、数十分間にわたって、どちらかの集中が途切れたとて、誰からも怒鳴られた試しはない。ただし、大きな犯罪を未然に防いだことによる、褒章を受けたことも、ここまでには一切ないわけだ。今のところは、国民のために奉仕して働いているという、やりがいは、残念なことにまったく感じられなかった。警察学校を卒業したての頃は、いくらかの向上心もあり、あの記念の日に、警察官の制式帽を、お偉方から直接手渡されたときは、『少しでも自分の理想とかけ離れた仕事をさせやがったら、即日、辞表を叩きつけてやる』という気概も持っていたはずだ。実際のところ、三か月も持たずに、挨拶もなしに辞めていった同期もいた。だが、職場から消えた人間のほとんどが、数ヵ月も経たないうちに、連絡も取れない身の上となり、現状よりも上位の職に就いて、社会的身分の上で自分よりも成功しているとは到底思えない。一流大卒の新卒採用も、大企業からの転職事情も劣悪な状況にある今、少しの気まぐれによって、せっかく手に入れた公務員の職を簡単に投げ捨てるのは、客観的に見て、相当に大きなリスクである。もし、勤務の上で、納得のいかない出来事や、不愉快な思いをさせられたとしても、下手に動いてはいけない、と直感が教えていた。  暗い室内を走る、僅かな光の加減によって、ほんの数秒の間に何度も点滅を繰り返す、直視しがたいモニターを見つめ続ける作業を、昼食休憩後、すでに三時間にわたり、無心で行っている。その間、五分の休憩すらない。山寺の修行僧の座禅だって、これよりかはいくらかマシだ。正気など保てるはずはない。意識は徐々に混濁していく。黒い道路とたまに通る通行人の白いYシャツと、無数の違反車の車輪に蹂躙されて、少しずつ削れていくはずの横断歩道。自分のたった一言のチクりによって、署の一階の目立たない位置にある、狭い個室に呼び出されて、割りに合わない罰金を支払わされるタクシードライバーたちやトラックの運転手。彼らだって悪意があって違反を犯したわけではない。少なくとも、それを覗いている我らよりは明確な言い訳があるはずだ。ああ、今行き過ぎた四トントラックも、ここから見た感じでは、かなりのスピードが出ていた気がする……。65キロか……? 70キロだったか……? 見逃してやりたい気もするが……、一度映像を戻して、番号を控えておいた方がいいだろうか……? 採用されてすぐの初々しい頃だったら、全ての判断は〇か×。つまり無罪か逮捕。もっと積極的に職務にあたっていたはずなのに……。今は仕事の中に効率と忠誠という成分が多分に入り混じり、自分の素直な判断をなかなか許せない。 「ちょっと、いいか? 先週の日曜にさ……」  魂を持たないものが、現世において、自分の存在を何とか思い出して欲しいと、訴えかけようとするかのように、隣の椅子に腰かけていた、青木先輩が擦れそうな声でそう語り始めた。性格的に無口で冷静な人なので、こちらに話を振ってくることなど、日に数回あるかないかであり、遊び話ではないだろう。少し緊張してその話に耳を傾けることにした。 「道玄坂の駐輪場の手前……、そう、焼き肉屋のちょうど前辺りの道路に、先週の日曜の昼に、突然でっかい穴が開いたろ。なあ、ニュースでも見ただろ?  チャンネルをどこの局に回しても、昼どきに散々やってたからな……。位置的にマスコミ各局からも近いし……。まあ、下水道工事の際の不手際が原因で起きたらしいけど……。もちろん、あの一件の管轄は渋谷だから、例え、この監視室でその瞬間を見逃してしまったとしても、俺たちの責任じゃない。この部屋のモニターには、いっさい映らないわけだからな。道路の上に穴が開く、その瞬間を、じっと見ておかなきゃいけないとしたら、それは隣の部署の仕事だよな……。ただ、事故現場付近には、偶然にも監視カメラは一台も設置されてなかったんだ……。知らぬが仏というヤツだな……。だから、発見者から警察への通報にもそれなりに時間がかかった。誰だって、目の前に轟音と共に穴が開くという、風変りな事件をすぐに警察と結びつけるのは難しい。まあ、それを良しとするか、悪しとするか……」  先輩はやや抑えた口調でそこまで一気に言ってしまうと、顎に生えた無精ひげを何度も触りながら、考え事にふけっている様子だった。須賀日巡査としても、あの一件は相当に衝撃的であったし、記憶に新しいところであった。何しろ、自分の勤務地のすぐ傍である。過去には、警らの巡回で何度となく歩いたこともある道である。幸いにも、負傷者はまったく出なかったわけだが、都心のど真ん中での不意を突いた落盤事故であり、一時はマスコミ各社や、テレビやネットでの速報を知って、突然生まれた穴を一目見ようと、多くのやじ馬が集まり、駅周辺をひろく埋め尽くす事態となった。この若い巡査も、本来は休暇であったにも関わらず、家で昼寝をしていたところに、上司からのありがたい呼び出しを受けて、現場の近くの路上で、終電間際の深夜に至るまで、交通整理にあたったのだ。『誰の落ち度とも知れぬ、関連のない事故であっても、我が身には不幸となって降りそそぐ』須賀日巡査の鈍い想像が、ようやく、そこまで届いたとき、先輩が次の言葉を繋いだ。 「それで、俺が言いたいのはこうなんだ……。これは、万が一の話な。もし、道玄坂の駐輪場の真ん前に監視カメラが設置されていたとしたら、あの一件はどうなるのかな……。隣の部署の奴らは、渋谷地区担当だから、当然道路が崩落した瞬間に、その事態に絶対に、必ず、100%、気づかないといけない。音はいっさい記録されないから、カメラがどの位置に設置されているかで、落盤が起きた、まさにその瞬間に、いったいどの程度、陥没した様子が撮影されているかはわからないわけだ。こちら側のモニターの現場映像も、乱れていて、事故の様子が、はっきりとは確認できない可能性もある。でもな、混乱に陥る周囲の通行人や、慌てて急ブレーキをかける、乗用車のドライバーの反応を見ていれば、少なくとも、重大事が発生したことは容易にわかる……。もし、その崩落した瞬間に『きちんとモニターを確認していれば』だけどな……」  高木先輩は声を沈めて、意味ありげにそう付け加えた。その重い口調には『いいか、俺は大事なことを伝えているんだぞ』という意味が乗っているかのようだった。 「もし、そのとき、モニターの確認作業を無視して、勤務中に麻雀やトランプなんかに夢中になっていたとしたら、大変なことになりますね……。上役たちが上階で会議をやっている時間帯なんかだったら、みんな普段から気を抜いているから、十分あり得るのかも……」  須賀日巡査は、ことの重大さに気がついて、思わず、そううめき声を発した。まだ、警察任務の緊張や重大さが染み付いていない自分なら、そんな恐ろしい失態をやりかねないからだ。いや、おそらくは、同室で働く後輩が、そのような面倒ごとを引き起こしたり、巻き起こしたりせぬように、先輩はこの時点で忠告してくれているのかもしれない……。つまり、自分は周囲の人からは、まだ、当てにされていないのかも……。そう気づかされて、少し寒くなった。 「な、だから、そういう起こりえない不祥事が実際に起きてしまったら、『すいません。モニターから目を離していたので、すぐには対応できませんでした』では済まされないわけだな。警察機関が監視カメラで庶民の動向を見張っていることは、大々的には発表できないから、マスコミ各社に、『監視モニターには映っていたが、不注意により見逃した』という、この落ち度が知られることは、まず、ないだろうけど、この組織の内部においては、当然サボり自体が露見するわけだから、その事故の規模によっては、左遷や降格程度の処分じゃ済まされないわけだな……」 「先輩、ご忠告をありがとうございます。そのお言葉を肝に銘じて仕事にあたります……」  後輩からのその台詞に対して、言い足りないことがあるのか、さらに返答を加えようと思ったらしいが、渋谷地区の監視にあたっているはずの、隣の部屋からは、けたたましい笑い声が聴こえてきて、先輩は思い留めたようだ。隣の渋谷方面の監視部屋に勤務するのは、その顔をよく見知ったおバカな連中が主だが、今日も今日とて、こちらの監視室より、幾分は賑やかである。お隣は、つまるところ、体育会系で占められており、このような騒ぎは、いつものことなのだが。それにしても、今日の喧騒は勤務中とは思えぬ、お祭り騒ぎの様相である。二人はそれに反応して、右壁の向こうに気を向けた。数人の同僚が勤務外のつまらない話題に対して、喚き合い、ふざけ合う騒ぎが、しばらくの間、止むことはなかった。他人の気持ちを極度にイラつかせる音程の声だ。いつ重大事故が起きるかも知れないのに、よくもあんながなり声が出せるものだ。上階での重役会議に参加している上司たちが、いつ何時、通常では起こりえない事情によって、ここを覗きに来るかもしれないというのに……。まるで修学旅行の学生気分だ……。万が一を決して恐れないのが、愚か者というわけだが。 『前も言ったろ? あの女をものにして、あんな、ちっぽけな店、辞めちゃってさ、二人で独立しなよ!』 『いい女だなあ! いったい、何人の男とベッドで遊んできたのかな? あんた、びびってないで、自分で聞いてみろよ! 照れてんじゃねえ、それは、いいことなんだよ!』 『だからさあ、もう、いい加減、そういう仲になれ! 付き合っちゃえよお!』 『おっし! おまえが手を出さないんなら、こっちで貰うわ。もう、おまえは来なくていいわ! 明日はあの子に配達させろよ! こっちは名刺用意して待ってるからよ! 真っ先に声かけたるわ! いいな! 絶対に連れて来いよ!』  そのやり取りの十数秒後に、やや、なまった日本語で、『いえ……、あのおんな……、わたしぃの、彼女じゃないんです……。いみ、わかりませぇか? へへ、毎度、毎度、たしかにぃ、2160円をちょうどに……受け取りました……』などと、署のすぐ近くにある中華料理屋の外国人店員の気後れした声が届いてきた。どうやら、昼食の出前の器を下げに来ただけらしい。それだけのことで、おバカな署員に派手に絡まれてしまったのか。  隣室から流れてくる、そのきわめて低劣なやり取りを耳にしながら、もし、今この瞬間に、渋谷の街中を映すモニターの一台に、暴力団関係者同士のクスリの取り引きが映し出されていたとしたら、そして、それを完全に見落としてしまったなら、いったい、どのように責任を取るつもりなのだろうか? まだ監視員としての経験の浅い須賀日巡査は、ありがたくはない形で、愚かなる先輩方から、再び、貴重なる教訓を得ることになった。
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