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斯かる不祥事について 第六話
そのセリフ自体には、決して棘は感じられなかったが、彼の心配事のちょうど真ん中を貫いていただけに、その衝撃は大きかった。若い巡査は古代呪術師に呪詛の言葉をかけられたかのように、全身を強張らせ、しばらくの間は何も答えることは出来なかった。いや、答えうる言葉は存在しなかったのだろう。休憩時間のカード遊びにすっかり浸っていた心の油断が作り出した、予期せぬ心の沈黙であった。自分としては、意識のどこか深いところで、いつ何時、この話題を出されるのではないかと、相手の視線の揺らめきを気にしながら、トランプに興じながらも、それを恐れていたことがわかった。他の二人の若い職員は、今のところ、H先輩の言葉に追随することはなく、まだ沈黙を保ったまま、こちらの顔色を窺っていた。まだ、自分たちの隠し持つ武器を、懐から取り出すつもりはないようであった。この突然の詰問は、確かにこちらの安息中の不意を突いたものではあったが、自分の独断によって、課長に密告したのは事実である。もし、その影響により、この中の誰かが職務上の不都合を被ったのであれば、この場で下手に言い逃れなどはせずに、謝罪をするならするで、厳しい問いかけにも応じた方が賢明と思われた。
『最初に否定しておいて、何か証拠を持ち出されてから、きつく責め上げられるのは精神的に厳しい。そうなる前に、こちらから先手を打つ形で謝ってしまおうか?』
しかし、あの時の自分の判断や行為に対して、どこまでの非を認めるべきなのか。無傷でこの場を逃れるような返事を練り出すことは容易ではなかった。極度の不安と混乱に陥りながらも、今後の署内での必要最低限の人間関係だけは、何とか無事に済むように策を巡らせた。もしかすると、課長を監視室に呼び込んで、あの映像をとくと見せたのは、この自分の仕業であることが、すでに特定されているのだろうか? それとも、交通機動隊の誰かが、不意に処分を受けたことから、おそらくは、監視室で勤務をしている人間のうちの一人が、密告した可能性が高いと思われると、ある種の鎌をかけてきたのであろうか? ここ二か月ほどに限っては、新宿界隈のモニターチェックは、自分と青木先輩を含めた、たった三名のみのローテーションで行われている。普段から人間の心理行動を探求している警察職場なら、特定の事件の被疑者を上司に密告した犯人を絞り込むことくらいなら、わけないはずだ。青木先輩は大きな秘密を握っても物怖じはしないし、裏表のない性格で知られているから、例え、今回の密告について疑われたとしても、『そんなこと、絶対に俺じゃないよ』と冷静なるひと言で、軽く跳ね返してしまうような気がする。普段の勤務における印象や態度というのは、こういった重大な局面において、大いに参考にされるものだ。大事なときに平気で嘘をつく人間は、普段の仕事ぶりからして、すでに挙動が怪しいものである。もしかすると、監視室勤務の他の二名は、すでにシロであると裏付けが取れていて、今回の背信行為の容疑は、この新米の自分だけに向けられているのではないだろうか? そう仮定した場合、この崖っぷちにおいて、どのような対応を取れば適切といえるだろう? どんなに巧く舌をまわしてみたところで、全ては後付けであり、言葉を付け足すごとに、心証がより悪くなっていく可能性だってある。それならば、相手側からこれ以上厳しく迫られる前に、全てを告白してしまって、とりあえず、出来る限りの謝罪をすべきか? それとも、『自分は断じて密告などしていません』と、あくまでも突っぱねてみるか……。須賀日巡査は心中においては、懸命なる方角へと向かうべき方策として、すでに結論を出していて、この場の首領格であるH先輩に対して、心中では返答さえしているつもりであった。だが、実際には、持ち前の精神の弱さが、全ての行動を引き留めてしまい、まだ、何のお詫びの言葉も口から出て来ないのだった。
「それでな……、須賀日君、うちの部署の三十代の隊員がな、二日前に論旨退職になったんだよ……。実はそいつは俺の長年の友人なんだがね……。ああ、先に言っとくが、君がこの件について、もし、何も知らないのであれば、これ以上の説明をする気はないから、内密の話にしておいてくれな……」
「それと……、この私が……、ホストクラブの一件について、上司に話してしまったことと……、何か、関わりがあるんですか?」
須賀日巡査は先に提示された事実関係の詳細について、その話の先の知りたさゆえに、つい口を滑らしてしまい、半ば反射的にそのような返事をしてしまった。だが、自分のこの件への関わりを暗に認めるような発言になってしまったことで、その顔面はすっかり青くなり、この時点では、乗ってはまずい問いかけだったと、瞬時に後悔をした。勝手に機密情報を話し始めたのは向こうであるし、どんなに驚愕の事実を聴かされたとしても、今はまだ、『そんなことが本当にあったのですか?』とでも応えておいて、後は知らぬ存ぜぬで通せばよかった。
「やはり、君がある程度知っているようだな。じゃあ……、まあ、先にこれだけは言っておくか……。新宿の四丁目にある例のホストクラブは、開店当初から、高校在学中の未成年者の男子生徒を、その年齢を把握した上でスカウトして雇ったり、不正就労の外国人を条例に違反しているのを承知の上で、ホストの一員として雇ったりしている。その違反行為のいくつかを、もうはるか昔に、うちの署の警官数名の内偵によって掴まれていたんだ。まあ、新宿界隈には何度業務改善命令を受けても、一向に反省する態度を見せない、『金が儲かりゃ何でもやる』質の悪い風俗店が多く並んでいるわけだが……。多額の儲けを出すためなら、警察や法律なんて、ハナからくそくらえ、っていう態度だな。でな、そういう店の多くは金脈となっている暴力団関係者と裏で繋がっているんだよな。そんなことは内偵なんてしなくてもわかっている。だから、警察組織を敵に回したとしても、顔色一つ変えずに営業を続けて、のほほんとしていられる。警察官のうちの何割かは暴力団関係者に痛い傷を握られているからな。その勢いにより、歌舞伎町の店舗の売り上げの何割かが暴力団の資金源になっているケースも多い。ここからは、余り深く説明しないでもわかると思うが、そういう強力な後ろ盾のある店ってのは、裏社会の人間からさ、警察側の後ろ暗い面だって、聴かされているわけだから、今さら怖いものなんてねえ、と最初からいい気になってるわけだ。最悪の場合には、刑事事件に持ち込まれる直前にでも、裏取引をすればいいとさえ思っている。警察が日常的に指導なんてしても、まるで意に介さないんだよな。例えば『あなたの店は不法滞在中の韓国人をホストとして雇ってるから、このまま改善が見られなければ、近いうちに条例違反の咎で踏み込みますよ』なんていう警告を発したとして、それに準ずる形で、警察の捜査集団が乗り込んでいき、証拠品を押収したり、店の財布を握っているチーフスタッフを署まで連行したりするとだな、歌舞伎町にある数百件のホストクラブ、キャバクラのほとんど全てに対しても、ほぼ同様の立ち入り検査に行かなきゃならなくなるわけよ……。一件だけに踏み込むなんてのはおかしいだろ? 明らかに不公正だと指摘される。ご存知の通り、あの辺りの店舗は表向きは違う種類の店に見えても、裏っかわでは、まるで蜘蛛の巣のように綿密に繋がっているからな。一つ潰しても、その店のスタッフがそのまま隣の店に転職するだけなんだ。ご承知の通り、新宿署の警察官だって、そんなに大勢の人員を毎日のように風俗関係の捜査だけに回すわけにはいかない。しかも、そういった店を立件にまで追い込めたとしても、暴力団との明確な繋がりが立証されなければ、店の店長にほんの数万円の罰金を支払わせる程度の軽犯罪で終わってしまうことがほとんどだ。たかが数万円の支払いでせっかく引っ張ってきたスタッフを全員釈放だ。捜査員には手当で月20万以上払わなきゃならんのに……、つまりさ、まったく割りに合わないってことだよな。そこで、今回の件の機動隊員は、まあ裏金でな、そのクラブに捜査には踏み込まない見返りとして、ひと月数万ほど包んでもらって、『では、こちらとしては、お宅の不正を何も見ていませんよ』という取り引きにしていたわけなんだ」
先輩の細い口がひと言呟くたびに、周囲の温度が少しずつ下がっていくような気がした。自分はすでに囚われていた。今となってはすでに、後悔を通り越した悔恨の念があった。上司への密告を軽率に決断したあのとき、もう少しだけでも深く考えておけば良かったと。
「君の目には裏社会との取り引きそのものが常識外れに映るのかもしれない。ただね、世間一般の人々がどのように見るかは知らんが、そういう道に外れた行為というものは、不良警官ではなくても、全国津々浦々において、当たり前のように行われていることなんだ。風俗関係の人気店は、最低限度の法律や条例しか順守するつもりはないだろうが、だからこそ、ひと月に何千万でも何億でも、当たり前のように稼ぎ出すわけだ。それにより、経済は動いている。そのくらいは君にもわかるだろ? 風俗で意気揚々と身体を売って稼いでるおバカな娘さんたちがさ、仕事終わりに、同じ歌舞伎町のクラブに乗り込んでいって、金髪にサングラスをかけた、若いホストの外観にすっかり惚れ込んでしまう。そのまま、その男との他愛もない会話と高級ワインにのめり込んで、ついさっき、給料袋から財布へとしまい込んだばかりの、数十枚の紙幣を、たった一晩で使い込んでくれるわけだ。そんな大金バラ撒き人間が、一夜に数十人単位で、あの界隈を彷徨っているわけなんだよな。60円の小麦パンや110円のおにぎりを、通学途中の子ども相手に売って、それで生計を立てている、真っ当な商売人からすれば、そんな稼ぎ方はたまらんわな。
『頭の悪い人間たちを騙して、短期間で常識外の金額を搾り取る』
それが道徳に則った綺麗な商売です、とはどういう思想の人間から見ても、とても言えないだろう。しかしまあ、警察さえ見て見ぬ振りをすれば、法律はまったく機能しない。常識知らずからのふんだくりだって、きちんとした商売の一つとして成立するわけだ。もちろん、右手では暴力団に多額のみかじめ料を払う。左手では警察に札束を握らせて目をつぶってもらうわけさ。まあ、正直なところ、俺たちだって、この歳になるまでには、人には言えないような業界の人間から、三百万以上は受け取っているし、こんな罪な職業に就いた以上、それは正常な行為だと思ってるわけよ。夏場の盛りに、外勤の警察官を何十人も動員して、みんなで汗びっしょりになって、どこの店舗にも一ミリ単位の不正行為すらないかどうかを、一軒一軒調べて回るより、ずっといい解決法だろ? 少なくとも、誰も損はしないんだ。一晩で二百万稼ぎだして、次の晩には三百万を吐き出しちまうような、姉ちゃんたちの生き方の良し悪しなんて、とりあえずは放っておこうぜ。ま、こちらが言いたいことは、その辺が主なとこさ。つまり、俺たちは『何も不正なことはしていない』そして、君もあの夜の映像は何も見ていない。それでいいね? そして、論旨退職に追い込まれた俺の同僚は、『家庭の事情があって、仕方なしにこの仕事を辞めることになった』それで、どうだい? マスコミは今回の一件の詳細を、まだつかんでいないし、とりあえず、今のところは誰の傷にもなっていない。ここは、そういうことにしないか?」
この有り難い申し出を拒否するのなら、背中から刺すぞ、と言わんばかりの殺気のこもった剣幕に思えた。他に地域課の二人もこの場に来ているところから見て、この一件に関しては、例の三人の行為を自分が課長にチクったことについては、完全に裏を取られていると、そう考えて間違いなさそうだった。職場こそ違えど、同じ組織の内部で働いているというのに、こんな見え見えの脅迫が簡単に許されてしまう以上、関連する部署の多くが、この件に関わっていて、これ以上傷口を広げないよう、黙認の姿勢を決め込んでいるとみて間違いなさそうだった。そりゃそうだ、身内の大量処分などに踏み切ったら、マスコミ各社の格好のエサになってしまう。警察と暴力団との繋がりなんて、今日に始まったことではないだろうが、昨今のニュース日照りの最中においては、新聞各社にとって、とても良き肥料でもある。大手新聞だけでは済まされない。警察幹部の記者会見、ホストクラブや暴力団事務所の捜索も始まるだろう。自分の一本の密告のために、この一件は、いったい、どこまで波及することだろう。『警察官は市民のお手本であり、公務員の模範を示すものであります』などと、偏った意見を日常的に宣っている人もいるが、そんな頑強な心の壁が、こんな腐った事件を見せつけられても、なお崩れないのであれば、大したものである。完全に裏切ってしまった国民の信頼を、元の地点まで押し戻すまでには、今後何年もの期間がかかるのかもしれないし、金輪際、元に戻ることはないのかもしれない。実行犯として、名前の知れてしまった当人側に、すんなりと辞めてもらえる意思が、もしあるのならば、それが実行されることによって、全てを終わりにできるのだ。とりあえずは自分の身も守れる……。今のところ、課長が沈黙している以上、もはや、周囲には自分を弁護してくれる人間は誰もいない。ここは観念するしかなかった。須賀日巡査は相手がまだ凶器も取り出さず、笑っているうちに、いさぎよく頭を下げることにした。
「実はその件に関しましては、私の方から、先にお伝えしておいた方が良かったのですが……、実は、当夜の映像を確認した際に、経験の浅さもあったために、さしたる考えもなしに、自分の課の上司の方に映像の所見を報告してしまいました……。ただ、決して、一緒に働いている仲間たちに迷惑をかけようとか、貶めてやろうとか、悪意を抱いた上での行為ではなく、あくまで、ホストクラブと日常的に接触を持っていることが、警察官としての正当な業務であったのかどうか、についての確認をとるための報告でした……。詳細はよくわかりませんが、この件に関しまして、あの報告の後で、うちの署の幹部の方から厳しい処断があったのでしたら、私自身の責任も十二分にあると感じています……。本当に申し訳ありませんでした……。私の急ぎ足のために、辞めることになってしまった方を思うと辛いですが、どうか、よろしくお伝えください。以後、気を付けます……」
前傾40度ほどに、きっちりと腰を曲げて、これ以上ないほどの一礼をしたつもりだったが、冷酷な視線を持って、こちらを見ているはずの三人からは、しばらくの間、何の反応もなかった。『いや、過ぎたことは、もういいんだよ。君は物事を生真面目に受け取りすぎるんだ。あまり、気にするなよ』と、穏便な返事がくるまでは、簡単に頭は上げられないと思っていた。心から謝罪をしているのだ、という姿勢をくまなく見せなければならないとまで。しかし、先輩方からのその良き合図が、待っても待っても、なかなかやって来なかったのである。この何とも言えぬ狂おしい時間帯が、非常に長い不安と屈辱の間に感じられた。ほぼ正面にいるはずの先輩の身体は、彼が頭を下げている間、微動だにせず、おそらくは、鬼のような形相で、こちらを睨みつけているに違いないと想像できるようになってきた。先ほど自分が真剣な決意のもとに述べたことは、決して口から出まかせを述べたわけではないのだが……。あるいは、この審問は、相手方にとっては、こちらが思っている以上の重大事であり、自分の真意を根本から確かめようとしているのかもしれない……。つまり、それは、『もう二度と同僚に対する背信行為を行わないかどうか』を確認するための詰問なのかもしれない。かつて、薄暗い取調室の中において、金髪にピアスを付けた、薄っぺらい嘘つきどもを眼前にして、反省率ゼロ%の出まかせを、何万回以上も跳ね返し、組み伏せてきた百戦錬磨のやりくちだった。
部屋の中はしばらくの間、静まり返ったままだった。誰もしゃべらなくなってから、もう、どのくらいの時間が経ったのだろう? やはり、仲間を上司に売り払ってしまった男などを許すつもりは、最初からなかったのだろうか? こちらとしても、余計なやりとりのことまで、ペラペラとしゃべり過ぎたかもしれない。しゃべり過ぎる人間というのは、緊張の場において、かえって信用されないものだ。自分にとって都合の悪いことは、基本的に黙秘に徹する方が正解だったろうか? 縦横無尽に絡んでいる署員同士の連携の糸が、不正行為の取り調べにおいては、こんなに強力無比なものだとは思いもしなかった。仲間を売ることで、自分の評価を効率よく上げていく、ということのリスクを甘く見すぎていた。
おそらく、礼をしてから、七八分ほどが経過した頃、H先輩は何らかの結論を見出したのか、長く座り込んでいたパイプ椅子から、ゆっくりと立ち上がって、何も言葉を残さずに、部屋から出て行く気配を感じさせた。隣に立っていた地域課の二名も、それに次いで、出口の方に向けて、ゆっくりと歩み出した。『今回だけは許してやるから、今後は気を付けてくれよな』などという須賀日巡査が心から期待していたセリフは、結局のところ、誰からも出て来なかったのである。彼がようやく頭を上げ、何とか水死しそうだった肺を洗浄しようと、大きなため息を一つついたとき、地域課の二人は音もたてずに振り返って、何の感情も混じらないような、それでいて、彼の存在には、さして興味もなさそうな、無機質な目でこちらを見つめていた。
「僕らの部署の話ですが、その件に関係していた二名は、半年間の減棒処分になりました。まあ、不正がバレてしまったこと自体は、本人たちの手落ちですから、今さら、弁護も弁解もいっさいしませんが」
そう聴かされて、今回の尋問はまだ終わっていなかったのかと、須賀日巡査は再び顔を蒼くして、反射的にまた一つ頭を下げて、上司でも年上でもない自分と同等であるはずの署員に対して、また嫌になるほど謝罪の意を示した。
「うちの署では、組織の一員として、機能できていない職員については、『あなたはうちの職場では要りませんよ』ということになり、すぐにはこの国のどこに在るのかも思い浮かばないほどの珍妙な地名で埋め尽くされたような地方まで飛ばされてしまうんですよ。その辺については、最近話題になっているブラック企業とやらより、ずっとシビアだと思います。『代わりはいくらでもいる』というアフォリズムは似てますけどね。須賀日さんも、もう少し、行動の一つひとつに気を付けながら、勤務を続けていった方がいいと思います。せっかく、この東京で就職できたのに、丸二年も勤めないうちに、東北とか四国の山奥に飛ばされてしまった人が、うちの職場だけで、過去には何人もいますから。まともな舗装もされていない道路を、クルマで三十分も走らなきゃ、コンビニさえもみつからないような、不便な交番で、定年まで働きたくはないでしょ?」
もう一人が止めとばかりに、永久凍土の底から拾ってきたようなセリフを置き残して、二人の姿は廊下へ消えていった。今度こそ、尋問は終わったようだ。この日は通常の勤務としてみれば、手間がかかる仕事も一切なく、遅残業も何も無い日であったが、彼にとって、こんなに心身ともに疲れた日は初体験であった。それは、同僚からの嫌みや圧力による疲労ではなく、明らかに、『しないでもいいことをしてしまった』という強烈な悔恨の念から生まれた気疲れだった。明日からの日常では、署内の各フロアで、すれ違う他人と目線を合わせるだけで、強烈な負い目を感じ、辛く感じられるようになるだろう。これからの長い長い日々を、あんな奴らと廊下で顔を合わせぬように、逃げ腰で過ごしていくのはひどく辛い。なるべく、下を向きながら、人の視線を避けながら、一日中腰が引けたような状態で働いていくのは耐え難く辛い。例え、彼らの顔を見なかったとしても、この二重三重のトラウマは、ことあるごとに、何度でも脳裏に甦るだろう。致命的な判断ミスが網膜の裏側に残像となって見えるたびに、不安と後悔の中で精神は疲弊していく。今回の件で理不尽な処分を受けなかったとしても、このままでは否応なく、肉体的な疲労から、心の病気へと移行してしまう。首をくくる勇気がわかない限りは、今後もこの職場での長い労働は続いていく……。どうしたら、今回の失態を挽回していけるだろう?
その日の仕事終わりの帰り道においては、まるで踏みつぶした後の害虫の死骸を見るような視線で、自分を見下していった同期の奴らを、片っ端から殴り倒していく映像を脳裏に思い浮かべることで、何とか、歩道で絶え間なくすれ違う、無関係の他人とトラブルを犯さぬ程度の平常心を保つことにした。そうでもしなければ、熱くなったこの気持ちが収まるはずがない。このままでは、帰り道で通行人の肩が薄布一枚分ほど触れただけのトラブルでも、刃物を持っているならば、躊躇なく刺し殺してしまいそうだ。さして権力を持っているわけでもないのに、自分の精神をここまで追い詰めていったあいつらを、絶対に許したくはない、とも思っていた。だが、この社会のどこにおいても、あるいは、署内においても、自分には彼らのような強力な人脈はない。バレないように、あることないことを陰口によりばらまいてやっても、汚い罠に嵌めようと画策してやったとしても、結局は、味方のいない自分の方が敗北してしまう気がする。彼らの人脈の糸が署内の若い層の相当広くまで染み渡っている、というのは、あくまでも個人的な憶測であり、詳しく調べたわけではないので、想像の域を出ないわけだが、あれだけの屈辱を浴びせられた自分の気持ちを励ましてやることだけは何とかしてやりたかった。何もせずに立っているだけで、胸を締め付けられる思いがした。少しでも、気を緩めると、また、自分が上半身を深く折り曲げながら、悪鬼どもに謝罪している、あの時の画が思い浮かんでくる。圧倒的な後悔と恐怖の念によって、脳内において、せっかく良い展望を創り上げてみても、それはあっけなく失望に打ち崩され、何度も何度も絶望の海へと流されてしまうことになるのだ。こんな事件に巻き込まれたとき、心を許せる誰かにひと声かけて欲しかった。一緒に食事にでも誘って欲しかった。そんな頼りがいのある知人が自分には全く存在しないという寂しい現実が、『どんな手段を用いても、結局は奴らに刃向かえない』という、一番大きな失望と後悔を生み出すことになるのだった。
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