斯かる不祥事について 第七話

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斯かる不祥事について 第七話

 次の展開が起こったのは、その昼休憩での出来事から、およそ一週間が経った、ある日のことだった。先輩たちに呼び出され、散々いびられた恐怖により、自分としては、しばらくの間、出勤すらまともにできず、自宅に引きこもることになるのではないかと、内心では下へ下へと考えていた。しかし、その悪い予想を良い意味で裏切り、あの重大な一件の後も、一日も休まずに出勤して仕事に励むことが出来た。先輩と同期に不本意な形で頭を下げる羽目に陥るという、無様な記憶を、なるべく早く頭から振り払おうと、勤務時間中は身体を多く動かして、がむしゃらに働いていた。思いもかけずに立ち直れたのは、それが幸いしたのかもしれない。その結果、目の前を次々に過ぎ去っていく多種多様な現実の方が、少しずつ、あの悪夢のような出来事が生み出す妄想に打ち勝ってきたようだ。あの一件の記憶は、彼が危惧していたほどには、他人の嘲笑というナイフによる傷を、記憶の中に作っていなかったらしい。 『まだ、入りたての若造なのだから、こういった失態はある程度仕方がない』  そういう楽観的な思いが、小さな棘となって自分の心の内側に向けて、育ちつつあったトラウマから、光のある道へと救ってくれた気がした。そうだ、まだ自分は若い、ここから気持ちを切り替えて、組織に従順し尽くすという、新たなる思想をしっかりと取り入れれば、本物の構成員として立ち回れるはずだ。今日も仕事場には、邪眼のようなモニターたちが所狭しと並べられていて、こちらの一つひとつの動作にさえ、その目を光らせているようだ。本来ならば、人間のひとつの能力として(モニターの映像を観察するために)持ち合わせているはずの自分の目でさえも、これまでよりも、まるで機械化されたように、やや冷徹になったような気がした。そうだ、社会人の貢献の仕方とは、組織のトップの意向にどう反応するかではなく、兎にも角にも、まずは心からの賛同を示し、自分の力でそれをどのように先導していけるかである。自分特有の甘ったるい道徳や正義、あるいは一般市民の明日の幸せなどではなく、国家が粛々と運営している方針(Compass)に合わせるために、自己の能力を日々成長させていくのだ。その意思表示こそが、忠誠心として、やがて高く評価されていくようになるのだ。そのことを、日々の勤務において、最重点課題に置くようにしよう。よし、これでいい。今度こそ、人生の鉄路の軌道の上にしっかりと乗ってやる。まだ背中を押す風は強く吹いているはずだ。  このような思考からわかることは、この頃にはまだ、須賀日巡査にも、警察というこの特殊な組織に、なるべく長くしがみついていこうとする気力が幾分は残っていたということである。例の失態をマイナス面の記憶だけで終わらせる気はなかった。自分も彼らのように立居振る舞えば良いわけだし、少なからず、そのコツを掴んだ気にもなっていた。  しかしながら、その日の昼休憩の際に、直属の課長から、人づてに急な呼び出しがかかった。あの不愉快なホストクラブでの一件において、自分が同僚の不正を打ち明ける相手として選んだ人物である。今となっては、あの一件は、すでに打ちのめされた過去でもあり、嫌悪感すら漂っているわけだが、ここ数週間のうちに、自分の中では、きっぱりと記憶から消し去る決意を固めていたため、今さら、直属の上司から、どんな理由による呼び出しがあり得るというのか、その内容は自分にとって果たして良いことなのか、これ以上、さらに立場を悪くするようなことなのか、想像すらできなかった。自分の半生にあっては、負け戦として受け入れることにした出来事だと結論づけていただけに、この、まったく予期せぬ呼び出しには、動揺を隠せなかった。  彼は気持ちを落ち着ける間もなく、少し慌てながら、一般署員が打ち合わせ用に使用する、狭い会議室が所狭しと並ぶ、三階のフロアーへと向かった。もちろん、嫌な予感がしないわけではなかった。今思えば、トランプで軽い賭け事をやらされた日に、あの陰険な奴らは、こちらの真摯な謝罪をその眼にしておきながら、結局のところは、自分のやったことを許してやる、などとは一言も口にしてはいなかった。ほんの少しの歳の差があるだけで、身分はほとんど変わらないくせに! ホストクラブでの当夜の映像が、不祥事のひとつの証拠として、自分の手元にしっかりと残っている以上、善と悪がひっくり返されるようなことは、まずあり得ないだろうが、彼方の方で、警察幹部に対して、微妙な言い回しによる証言を行って、こちら側にも一分の非があるかのように感じられるような、卑劣な手を打ってきたのかもしれない。例えば、こちら側も実は署内に潜む第三者からの裏金を受け取っていて、気に入らない相手を退職へと追い詰めていくために、あの映像をいいように利用したのだ、とか。自分はあの一件を警察組織全体への裏切り、そして、深刻な規則違反と見たから、勧善懲悪と社会的なルールに則って、ごく当然の判断として報告しただけであるから、向こうが今さら何を言い出そうが、やましいことは全くないし、どんな迷惑なとばっちりを受けたとしても、堂々と反論はさせてもらうが、この間の謝罪の場面を再び思い起こすと、これ以上、余計な抵抗などはしないで、意見が正面からぶつかった場合は、ある程度のところで譲歩することが、一番良い方策のような気もした。残念ながら、自分が配属されたのは個人の意見がまったく重視されない、きわめて陰険な職場であることが徐々に判明しつつあるわけで、これから先、まだ何十年にわたり働くのかもわからないのに、これ以上、組織の内部に敵を増やしていくのは、まっぴらごめんだ。『昨日の敵は今日の友』あと五年も経った頃に、人生には、誰もが忘れ去ったような、古いことわざから学ぶことも時にはあるものだと実感できるようになれると嬉しいのだが。 『一応申し上げておきますが、あなたはねえ、もうどんな医術を尽くしても助かる見込みなんて、ほとんどないんですよ。そう、可能性でいえば、限りなくゼロの方が近いと、そう表現した方が良いでしょうな。助かる見込みもない患者のために、いつまでも高額なベッドなんて進呈出来ません。なぜって、お棺の方が近いわけですからね。少し不満そうにしていらっしゃいますね……。この理屈はおかしいでしょうか? 医者という職業は年収が高いから基本的に太っ腹です。ですから、特別にあなたの相手をしてあげているだけでしてね……。でも、どうしても手術を受けたいと、あなたの方で仰るのであれば、開腹手術くらいは一応しましょうか。様子を見ることくらいなら、医者の仕事としても悪くはありません……。もちろん、どの部位を切り刻んでいこうと、助かる見込みなど、ほとんどありませんけどね……。さあ、いつまで、ためらっておられるのですか……。大量の血を流す覚悟が出来たのなら、一歩前へ進んで、手術室の中へどうぞ……。貴方の好きなたくさんのモニターが待っていますよ……』  周囲には誰もいない無機質な白壁の廊下。その先の階段を登っていく途中で、そんな凍りついた声が間違いなく聴こえた。自分を脅えさせるために、壁の向こう側から誰かが語りかけて来たのだろうか。それとも、神の声、悪魔の声、あるいは、無意識のうちに自分の心に生まれてしまった、恐れと退避の特性を持った、二人目の自分の声かも知れない。  課長は会議室外の三人掛けのソファーに腰を掛け、須賀日巡査の姿を視界に捉えると、目じりにしわを寄せ、とても気持ちの良い笑顔で、『さあ、こっちへおいで』とでも言うように、手を振ってきた。緊迫した仕事中においても、部下に対して最大限の気配りが出来る人である。部下たちからの朝夕の簡単な挨拶に対しても、温和で丁寧な対応をしてくださる方である。だからこそ、例の一件を報告する相手として選んだのだった。あの一件を秘密裏に報告する相手として、このお人を選んだことだけは、間違っていなかったはずだ。 「歌舞伎町のあくどいホストクラブに、小銭をせびる目的で出入りしていた、うちの不謹慎な署員の映像を、この間見せてくれただろ? あのことを課長会議にかけてな、その結果、少しばかり、事態に進展があったんだよ。上層部としても、きちんと動かなきゃならんということになった……。君にも少し報告しておこうと思ってな……」  課長の顔は普段とほぼ変わらず、自分の行為を失態として責めるようなものではなく、どちらかと言えば、落ち込んでいる若き巡査の心を照らすような、明るいものに見えたので、彼の心中を黒く覆っていた不安感は、朝霧が風になびかれて消えていくように、少しずつ解消されていくように思えた。『よし、このフロアまでは、ずいぶんびびって降りて来たわけだが、おそらく、自分にとって悪くない話だ。この事件への自分の印象も、大きく改善するかも知れない』と、気持ちをさらに励ましていく余裕さえも生まれた。 「上層部との相談の結果だがね、君の報告に挙がっていた、三名の署員は服務違反により、厳正に処分することになったからな。今回の不祥事は事前に相談を持った上で、勤務外に実行された行為なわけだが、都民を法によって守るという重要な職務に就いている以上、ほんの出来心であるとか、小遣い稼ぎでやってしまった、などという単純な言い訳では済まされない。奴らを、そのままのさばらしておくわけにはいかないと考えた。ただ、この一件を他の職員に対して、どう伝えていくかは、今後の検討課題になる。これまで労苦を共にしてきた同僚が、大きな処分を受けたことを周囲の職員に知られずに済ますことは出来ない。机がひとつ分ガラッと空くわけだからな……。だが、該当職場の無関係の署員には、なるべく動揺が伝わらないようにしていきたい。自分と同じ職場に害虫のような人間がいたなんて知らされたら、普通の社会人なら、小さなショックでは済まないはずだ。ただ、上層部に貴重な情報を入れてくれた君に対しては、事前にそのことを伝えておこうと思ってな」 「いえ、あの……、私としては、いくら不正に関わったとはいえ、当初は、同僚を職場の隅へと追い込んでいくつもりなどは毛頭なく、ただ、マスコミなどに事前に察知されて、大々的に報道されてしまいますと、警察全体への大きなダメージになるのではないかと判断した次第です。庶民の盾となるべき警察官たるもの、不正にだけは陥ることなく、常に規則に準じた行動を取るべきだと考えまして……、熟慮の末に、課長まで今回の一件を報告させて頂きました……。まことに……、何と申し上げますか、差し出がましいことを致しまして、まことに申し訳ございません。私の報告が、同僚への厳しい処分を促すことになってしまうなど、やり過ぎてしまった点につきましては、心から謝罪いたします」  若い巡査は自分としても、少しやり過ぎたかな、と思えるくらいに大袈裟な身振りで謝意を込めつつ、出来る限り丁寧な言葉でもって、そう伝えた。そして、緊張により震える手で帽子を取ると、一礼をした。彼にここまでさせたのは、当然のことながら、先輩らに責められた、あのときの一件があったからであろう。 「君は都民のあらゆる行動に違法が含まれていないか、を監視する業務を行うことを国家から認められている。警察庁のトップがそういった監視行為の全てを追認している。内部の人間がこの監視活動を逆手にとって悪事を行うなど、規則に違反した場合、その処分執行の権限の全ては上層部にある。君の目には、どんなに些細なことに見えても、その裏には重大な事案が潜んでいる可能性もあるわけだ。例えば、今回は容疑者たちが取り引きしていたのが、取るに足りない小銭であったから、これは短期間で解決可能な単純な事案であると、気楽に考えてはいけないわけだ。君たちは都民の不正を発見したなら、とにかく、その全てを上司に詳細に報告すること。その監視対象には、当然ながら、我々、警察関係者も含まれてくると、そう考えてもらって良いだろう。違反行為の報告が適切なのか、それとも行き過ぎた行為なのか、の判断については、我々上司の方で規約に則って行うことだから、君には一切の咎はないし、何も心配しなくていい。今回のことは、当夜の監視活動から上司への報告までの全ての行為が適切に行われた、といってよいと考えている」  課長のその説明は、一聴して筋が通っているようではあったが、その実、堅い芯の入っていないリンゴのようなものだと感じた。ああいった底の見えない不祥事が、この界隈で実際に起きていることに対しての責任の所在について、何の説明もなく、納得のいかない点があった。例えば、ホストクラブに忍び込んだ、三名の違法行動を事前に察知していた署員が他にいる可能性だってあるのだ。当夜は三名であったが、いつもはもっと大勢で通っていたのかもしれない……。 『幹部たちによる厳格な内部調査によると、当夜の事情のいきさつを知っている人物は他にはいなかった』  せめて、そのくらいの証言が欲しい。今のところは、ただのトカゲのしっぽ切りになっている可能性もあり、自分が警察官の一員となってから、心中に常に抱いてきた黒い霧のような疑念には、ほとんど応えていないのだった。 「了解しました。励ましのお言葉をありがとうございます」  若い巡査は浮かぬ顔をせずに、とにかく、そう言って再び頭を下げた。『これからも地道に努力していこうな』とか『警察という職業は、出世という概念を必ずしも目的とはしないで、終生勤めていく職業だからな』とか、そういった戒めのセリフで、この会見が終わるのかなと思っていたのだが、ここから課長の態度が一変して、この特殊な組織の新しい闇を見せることになる。  課長は彼の肩を一度軽く叩いて、身体を少し寄せてきて、こう囁いた。耳の近くで聴いたはずのセリフが、やけに遠く、それは地獄の窯の底から響いてきた声にさえ思えてきた。 「君のお手柄のおかげで、私は春から本庁での勤務に登用されることになった……。この部署の後釜には、広報課の加藤係長があたることに決まったから、後は彼に可愛がってもらえ……。今回の件で、いったんは周囲の反応は冷たくなるかもしれんが、君はまだ若いんだから、何度でも立ち直れるはずだ。人間の怨みなんて、一年も持たんよ……。とにかく、元気にやれよ」  須賀日巡査は、一瞬、茫然自失となり、その言葉の意味するところが、なかなか掴めなかった。意識が何処かへと、まるで、川辺の雉のように、自意識が雲のない真っ青な上空へとスッと飛んでいったような気がした。彼はどうにか中途半端な笑顔を浮かべつつ、いったい、どう反応すべきかと、しばらく、身をこわばらせていた。『こういった裏話を、こんなところでしても良いのだろうか?』そういう思いも自然と湧いてきた。だが、昼食休憩で他の職員はすっかり出払っており、このフロアには、今は二人しかいなかった。 「やっと、アイツを追い落としてやったぞ……。何度、罵声を浴びせられたことか……。長年にわたって、ずいぶん、屈辱を味わい、散々苦労させられたわけだが……。この世界で効率よく出世しようと思ったらな、自分の地位を上げることよりも、相手の地位を何とか引き落とす努力をする方が、よっぽど効率がいいわけだな……」  課長の瞳は、もう修羅の世界の中にあり、その輝きの中央は、すでに須賀日巡査の方を見てはいなかった。先ほどのセリフも、彼の手柄を誉めたのではなく、ただ、自身の出世のために、あの事件を上手く利用できたことへの充実感から生まれたのであった。おそらく、例の事件で処分を受けた人間たちの上司が監督不行き届きによって、減棒処分になったり、配置転換を受けて降格することになったのだろう。それにより、本来約束されていたはずの出世が成立しなくなったはずだ。おそらく、眼前でほくそ笑む、うちの課の課長に、その空いた席が魔性のルーレットの終着点として、回ってきたということだ。つまり、自分は手柄を上げたのではなく、出生競争に巧妙に利用されただけなのだ。もし、他の幹部に密告していたなら、今年の春の人事異動の結果は、根本から変わっていただろう。まったく逆の結果として、うちの課長の姿が署内から忽然と消えていたのかもしれない。自分はこんな人間でも、信頼できる上司だと思ったからこそ、誠意を持って尽くしてきたつもりであったが、自己中極まった、このような鬼畜だとは思ってもいなかった。今まで、自分が見せられてきたのは、表向きのだけの仮面だった。そして、仮面を剥がしてみると、そこには他人を利用することしか考えていない悪魔の仮面が、もう一枚潜んでいたわけだ。そして、警察組織の幹部たちは、ほぼ全員が、どうやら、これと同様の人種で占められているのだ。今も、悪魔が下を向いて笑っている。どうやら、これすらも仮面のように思えた。まだ、下に一枚余計に被っているのかもしれない。もう、こういった人種にとっては、何が本性で何が嘘なのか、外見からでは判別できず、訳がわからなくなってきた。  そうか……、もしかすると、H先輩や、あのとき自分を苦しめてきた同僚たちは、この自分が上司に上手く取り入って、出世街道に乗りたいがために、密告という小汚い手段を用いて、この出世競争全体を操ろうとしたのでは、と勘ぐっていたのかもしれない。つまり、もうすぐ地位を上げていくはずの部署の管理職を、部下の不祥事によって足を取られるような方向へと導くべく、真偽に関わらず密告していくことによって、彼らの昇進を足踏みさせ、自分の上司を先に出世させようとしたのだと……。H先輩たちの目には、この自分がそこまで汚い悪鬼のような存在に映っていたのか……。もう一度、彼らに会い、今回の一件を、きちんと釈明したうえで、正式な謝罪をした方が良かったのかもしれない。若く経験の浅い彼は、そこまで考えた。そうしないと、人間関係自体がスタート地点に戻らない気がしていた。 「私だって定年退職が、もう、すぐそこまで迫ってきている……。残りの数年は今の閑職で飼い殺しだと……、半分は諦めていた……。まさか、こんな形で出世の糸口が見えてくるとは思ってもいなかった。まさに晴天の霹靂だな……。こんな汚らしい組織の中では、気流に乗って上手く上昇するコツは、ハッキリとは決められていない。上役の役に立つことを何もしなくとも、突然訪れることもあるし、署内で一番努力したとしても、一生ヒラのままの人間だっている。本庁の最上階でふんぞり返っている、現在の警視総監にだって、過去にどんな功績があったのか、本当に頂点の椅子に座る人物に値するのかなんて……、結局は、組織の内部にいる誰も知らないわけだよな。長い経験を積んだ人間の手は、真っ白な値打ち物の石鹸で力いっぱい洗ったとしても、さらにさらに念入りに洗っていったとしても、拭いきれぬほどに地獄の水で汚れているからな……。今回のことは、君が起こしてくれた奇跡だが……、今後とも、こういう突風がどちらに向けて吹いていくのかは、言うなれば……、まあ、この自分の見せられぬ本性がばれるか、それとも、ばれないか、の違いなんだろうな……」  その上司の呟きは、最初はまるで聴こえてこないような、か細い声であった。次第に、彼の耳の奥まではっきりと届いてくるようになった。この陰険な世界で、またひとり見つけた人でなしは、やがて白い牙をむき出して、誰を相手ともせず、意味もなく、大声で笑い出した。まだ若い巡査は、真面目で理知的と感じていた、自分の直属の上司までもが、こんなおぞましい笑い方のできる人種だとは思ってもいなかった。彼は空恐ろしくなって、その脚が自然と椅子を離れていった。『君も頑張れよ』というその声は、『君もうまくやれよ』とさえ聴こえるのだ。どんな手段を使っても、魔界の奥へと進め。それは冥府の底から届く、骸骨兵たちへの行進指令のようにも聴こえた。早く、逃げなければ! これ以上、聴いてはならない。階段の方に向かって、身体は自然に走り出した。きつい勾配を中程まで降りきって、二階のフロアが眼前に迫ってきた。それでも、安心させてくれない……。鼓膜の奥まで、いまだに上司の笑い声が響いてきた。  その日の夜、須賀日巡査は、都心の中心街をなるべく人混みの渦に溶け込むようにして、ぶらぶらと歩いて帰ることにした。この一日の勤務だけで、新しい多くの畏怖を味わったような気がして、このまま、すぐに家に帰れるような気分ではなかった。課長には褒められたような、それでいて、信じていたはずの多くの価値観を裏切られてしまったような気がした。少なくとも、社会人として成長していくために、頑強に信じていたかったものたちが、今回の一件だけで、もろくも崩れ去ってしまった。それでも、大都会の着飾った人波や、派手なネオンの大看板を見ているうちに、その気分は少しずつ浮かれ始め、パチンコや風俗店にでも入って、憂さを晴らしてやろうかとまで思えるようにもなってきた。監視員としての職務を解かれてから、まだ、30分も経っていない。どんな嫌らしい現実を知ってしまったにせよ、風俗街を歩き回るなんて……、都民の模範となるべき一人の警察官として、こんなことでいいのだろうか? しかし、結局のところ、自分の職場には真面目などという言葉は存在しなかった。周囲は自己中心的な腹黒い奴らばかりだったわけだ。自分ばかりが懸命に正義を貫き通し、上司の前では懸命に猫を被っていても、良いことなど何一つ起きない。  一般の会社においては、セクハラや性欲とは無縁の真面目一辺倒のサラリーマンが、仕事終わりに平然と風俗店に入っていく光景は、溜まり溜まったストレスをどうにか消そうとするためだ。ストレスとは、医療や生活改善によって、ある日忽然と消えるということはない。その仕事から降りない限り、どうあがいても、貯めて消して貯めて消しての繰り返しとなる。それが出来ないのであれば、どんなタフガイでも、あっという間に精神科に通う羽目になる。重い病気になってしまう前に、毎日、風俗店で散財した方が、よっぽど安く済むことだってある。一人きりでうじうじと悩む前に、自分もそれを見習うことにしよう。どのように遊ぶにしても、まずは金が必要だ。財布の内部には、あまり紙幣が入っていないことに、想いはすでに届いていた。それなら、まずは銀行のATMに向かおう。せっかく稼いだ紙幣たちは、周囲の人間とのコミュケーションのために、神経をすり減らしてしまい、溜まってしまったストレスの発散のために、淫らな女性たちの身体の上へとばら撒かれるのだ。奇しくも、その前日はちょうど給料日であった。学生バイトの時分から、給与日当日に駆け足で銀行へと向かうのは、世間一般の常識においては、あまり褒められた行動ではないと理解できていた。25日になって、突如としてATMの前に長蛇の列を作っている人々は、皆似たような重苦しい事情を抱えている。それを横目に見て行き過ぎる人々の視線には、その弱みが全て透けてしまう……。なるべくなら、いつ給料が振り込まれようが関係のない生活を送りたいものだ。自分とて、彼らの暗い表情を笑ってなどいられない。今月振り込まれる額面も、ひどく安いことは、よくわかっているが、どのくらいの金額だろうか? まず、記帳をして額を確認しなければ……。  今月は出勤日が少なく、残業もそれほど多くはなかったから、額面に関しては、プラスになりそうな要素はまったくないわけだが……。印字されたばかりの通帳を機械から受け取ると、すぐに振り込まれた額の詳細が目に飛び込んできた。思わず、呼吸が止まった。もちろん、目を覆いたくなるような、やっすい金額ではあるのだが……。そこで、彼の身体の動きは、不可解な空気の中で、はたと止まってしまった。今月振り込まれた給料額の、すぐ次の行に不思議な文字が浮かんでいたのだ。そこには太文字で『特別賞与』と表示されていた。その金額はなんと二十万円! つまり、二十万円が給与と別枠で振り込まれていたのだ。公共の場での長い思考停止状態から逃れるために、一度視線を逸らして、もう長いこと壁に貼られている、『今月は駅構内でのマナー向上キャンペーンです』のポスターへと目を移し、十秒ほど静かに待ち、頭が冷えてから、再び、通帳へと戻す。『これは何の金額だ?』『今月だけの特別なイベントか?』そのような疑問の連想により、脳内は堂々巡りをしていた。そもそも、この特別という単語が何を意味しているのかは、すぐには思い浮かばないのだった。休日などの手が空いている時などに、突然の電話によって呼びつけられ、他の部署の要望に沿って、急な事故の処理や交通整理などの応援に向かうことはあるが、その際に支給されるささやかな手当は、当然だが、正式な封筒に入れられて、勤務後に担当者から直接手渡される。もちろん、今月はそのようなイベントは一度もなかった。とすると、この二十万円が振り込まれた理由を、今すぐにでも、詳細に知っておく必要がある。これが総務課による単なる入金ミスであれば、すぐに返還する義務が生じるからだ。それとも、『せっかくですが、歌舞伎町のキャバクラで派手に遊んでしまって、もう一円も残っていません』などという言い訳が笑って通じるような職場の方が、果たして良いのだろうか? この時、すでにATMの次の順番で待っていた客の方から、『すいません、用事が済んだのなら、早くどいてもらえませんか』という、きつい非難の声が何度となく飛んできてはいたのだが、深い思慮に捉われた彼の耳には、まったく届いていなかったのだ。 『ひょっとしたら、ホストクラブの一件を発見して、それをきちんと上司へ報告したことへの報酬なのだろうか?』  その単純だが恐るべき気づきに至るまでに、ゆうに十五分は経過していた。そんなバカな、確かに上司からはいくらか評価されたわけだが、他の職場の先輩や同僚たちからは、『あの裏切りについて』あれだけの非難や冷笑を浴びたというのに……。修復できるかすらわからぬ亀裂。もちろん、今思えば、例の一件はうちの署全体にマイナスだけをもたらしたわけではなく、動乱の中で、ずる賢く出世を手にした人間もいたわけだ……。あの密告によって、人生に深手を負った人も出てしまったわけだが、結果として、7:3、いや、6:4くらいの比率ではあるが、自分の勤務している職場への貢献がより多く認められたと……。今回、給料日と時を同じくして、二段階目に振り込まれた現金は、そのことへの一応の報酬なのだろうか……。あの夜における、自分自身の機転により、結果として、少なくはない金額を手にしたことにはなるが、背中を走る中枢神経の上を、冷たい夜風が吹き抜けていくのをリアルに感じていた。これまでの経過を順に見ていくと、今回振り込まれた金銭は、ただの報酬ではあるまい。まずは、正しい報告をしたつもりなのに、同僚に責められ、その前で頭を下げる羽目にまで陥った自分を慰める意味での金一封に思えた。もしくは、『なかなか、良い報告だった。これからも組織に従順に働けよ』という束縛の鎖にするつもりの金なのかもしれない。今夜は羽根を伸ばして遊ぼうなどという浮ついた気持ちは、ここに来て完全に消え失せていた。報酬金を手にした喜びは、遂に1%も得られなかった。今後とも、上司や同僚たちの冷徹なる視線を伺いつつ、今回のような失望と屈辱と安心と恐怖を短期間のうちに繰り返し味わっていたなら、暗いトンネルの彼方に光が射してくる前に、気が狂ってしまいそうだった。こんな嫌悪感を二度と味わいたくないという組織に対する反感と、何とも言えぬ後ろめたさが残っただけだった。この時、須賀日巡査は、出来るならば、この職をなるべく早く辞める方向へと動いていこうと、決意したのだった。  彼としては、配属されてからの一年半の間にも、この警察という組織から去ることを、内心の深いところでは、少なからず考えていたのだが、この一連の不快な出来事のあとになると、退職という選択肢を最有力手段として真剣に考慮するようになった。未曽有の不景気という、このきわめて不利な時期に、転職活動へと入ることへの不安感は当然持っていた。今、公務員という安定を手放せば、無職という不名誉な期間は思いのほか長引くかもしれない。それでも、大きく人生航路を変える決意をしたのは、警察組織へのそもそもの嫌悪感によるところが大きかった。自分が日常的な作業のひとつとして行うように命じられている監視という行為。これは一般庶民への背信的な行為ともいえる。もっと厳しく見れば、法律違反とも思える、この退廃的行為そのものが警察全体の腐敗を完全に証明していた。『一般の人々をすべからく見張ることにより、犯罪を確実に抑制していく』という旧来の考え方は、一聴して聞こえは良いが、その見方を裏返してしまえば、隠しカメラの映像に対して、権力機構の側が、どんな歪んだ判断を下して、見咎められた被疑者に対して、その判断を元にどのような理不尽な刑罰を下したとしても、それは刑法の名のもとに立派に成立するのだと、すべて認可されてしまうことになる。通りで転んだだけの酔っぱらいを逮捕するもしないも、痴漢や些細なスピード違反を、いったい、どういった基準によって取り締まるのかも、あるいは無罪放免にするもしないも、全ては警察側の判断一つに委ねられてしまう。庶民の自由な活動を思うがままに抑制したり、民意を都合の良い方へと操ったり、凶悪なる違法行為であっても、我が方に利益があるのであれば、わざと見過ごして認可したりさえも出来ることになる。しかも、その判断をする最初の部署である監視室の人間たちは、いい加減な態度によって職務に当たっていたり、あるいは監視室の内部で前後不覚に陥るまで、酔っぱらっているかもしれないのだ。  そのような神をも名乗りかねないような危険なシステムに、自分が丸々加担している、という嫌悪感。そして、今さっき加わったのは、その組織の内部でさえも、決して一枚岩などではなく、それぞれの派閥が、各々の欲求のままに、社会正義の遂行などより、組織の階段を効率的に登っていくことだけに専念し、反対派を叩き潰そうと画策している日々がある。そのことへの恐怖と不安感は突出している。自分はもはや鬼にも悪魔の側にも、つきたくはないのである。もう生活の安定が欲しい、などという、贅沢などは言っていられない。ビルの警備員でも建築作業員でも何でもいい。次の職が見つかったなら、すぐにでも、ここを退職するようにしよう。そう、自分の姿がこの職場から、すっかり消えてしまった後で、後ろ指を指されることになり、どんな悪口を叩かれたとしても、それは仕方ない。あれが本当の弱虫だとも、精神情弱者が発狂を起こしたことによる逃走だとも、言われたい放題で構わない。矛盾した権力機構への絶対承服を求められる中で、数十年にも及ぶ長い期間にわたって、理不尽な決断と失態を繰り返すことになり、やがて、撤退の決断も出来ぬほどに、気を狂わせていくよりかは遥かにマシなのだ。
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