いただきます、ありがとう

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 その男は、みすぼらしい身なりをしていた。 「いただきます、ありがとう。いただきます、ありがとう」  歩道の隅っこに立ち、道行く人に向かって頭を下げ続ける。しかし、そんな彼を顧みる人など誰一人としていなかった。 「いただきます、ありがとう。いただきます、ありがとう」  だが、男は嬉しそうに何度もお辞儀を繰り返すのである。何も得てはいないのに。そのはずなのに。 「すいません」  だから、私は声をかけたのだ。 「あなたは一体、何にお礼を言っているのですか?」 「……」  男はちらりと私に一瞥をくれたが、すぐにまた別の通行人に頭を下げ始めた。いただきます、ありがとう。いただきます、ありがとう……。 「道行く人が好きなのですか?」 「いただきます、ありがとう」 「例えば、容姿が好みだとか。あなたの容姿を見せていただいてありがとうと……。いや、それだといただきますの意味がありませんね」 「……」 「ならば、誰かが吐いた空気を吸っているとか? あなたは何らかの要因により、二酸化炭素を必要としている。けれどお金の無いあなたは適切な医療機関を受けられないから、こうして道端で通行人の吐いた空気を吸っている」 「いただきます、ありがとう。いただきます、ありがとう」 「いや、それもおかしいですね。あなたは全く人に近づいていない。あくまで距離を保って、お礼を言っている」 「……」  つらつらと推論を述べるも、男は全く反応しない。私の声が聞こえていないわけではない、単純に無視しているのだろう。  そうしていると、ふと思いついたことがあった。通行人と男を遮るようにして、割って入る。それから私は、どんよりと濁った男の目を見た。 「差し上げます、どうぞ」  そう言った次の瞬間、男の髭だらけの顔が引き攣った。苦しそうに胸や腹を掻き、その場に這いつくばる。口の端からは白い泡がこぼれ、ぼたぼたとアスファルトを汚していた。 「お前……! お前! なんてものをくれやがったんだ……!」  今や男の顔は、土気色に変わっていた。きっと、もう長くはないだろう。一方、すっかり胸や腹の患いを失くしていた私は、彼に向かって「ははは」と快活に笑った。 「そういうあなたこそ、我々から一体何を奪っていたのですか」
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