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「二人とも、顔が真っ赤。人間の子どもは暑さに弱いんだったわね。なんか飲み物もらってきてあげる」
エレインは汗を浮かべた前髪を跳ね上げると、家の中に戻って行った。
8月も終わりとはいえ、日中はやはり暑い。小さいアーニャは追いかけっこに飽きたのか、涼しい生垣の下にしゃがみこんで花びらを拾い始めた。
「あん、とぅー、ぴー、ぽぉー」
数を数えているのか、それとも呪文のつもりなのか。小さい指が動く度、花びらが生きもののように舞い上がる。
さっきキャンディーを捕まえたことを思えば、花びらを舞わせることなど何の苦も無いのだろう。
この子は家の中でこんな遊びをしても、叱られたことなんか無いんだろうな、そうぼんやり思いながら、ステファンも無意識に花びらを捕まえた。
「だぁーっめ! め!」
急にアーニャが立ち上がり、ドンとステファンを突いた。
「な、なんだよ」
「め! アーニャがしゅゆ(する)の!」
口を尖らせて小さな指を振ると、つむじ風のように花びらが舞う。
ステファンは鼻の頭にシワを寄せた。――この魔法を使えるのは自分だけって言いたいのか。生意気なチビだ。さっきちょっとでも可愛いなんて思って損した。
「ステフ、ちょっと入って。オーリが呼んでる」
エレインの声に救われた。あと5分、このチビ魔女の子守をさせられていたら、ほっぺたをつねるくらいはしていたかもしれない。
ダイニングではオーリが落ち着き無く歩き回っていた。トーニャもユーリアンも、懸命に笑いをこらえているのがわかる。ステファンは小声でエレインに訊ねてみた。
「ね、先生どうかしちゃったの?」
「知らない。さっきからああなんだもん。熱いお茶でも飲みすぎたんじゃない?」
さっぱりわからないというふうに肩をすくめて、エレインは再び庭へ出た。
「あー、ステファン、待たせて悪い。さっさと本来の目的を果たすとしよう」
咳払いするオーリの頬は少し赤いように見える。なるほどエレインの言うとおりかも、と思いながら、ステファンはテーブルに目を留めた。あの『忘却の辞書』が置かれている。
「保管庫の中で見たことを、私たちにも話してくれる? どんな小さなことでもいいから」
トーニャの声は優しいが、目は油断なくステファンを観察している。
こんな目で見られるのはあまりいい気分ではないし、正直言って、保管庫のことはあんまり思い出したくない。けれどオスカーの手掛かりを少しでも見つけるためだ。ステファンはとつとつと語り始めた――もちろん、ファントムの前で大泣きした事は抜きにして。
ステファンが語り、オーリが話の合間に補足をする。トーニャは二人から目を離さないままでメモを取っている。手だけが別の生き物のように動くさまは、オーリが羽根ペンで絵を描く時と似ている。
「面白い?」
ステファンが不思議そうに手元を見ているのに気付いたのか、トーニャはペンを止めて微笑んだ。
「トーニャは魔女出版の記者なんだ。ほら、いつかのトラフズクを覚えているだろう」
「今は『もと記者』よ。最近はデスクワークばかりで面白くなかったから、こういう取材は楽しいわね。で、それから?」
「それから……いや、それで全部だ」
きっぱり答えるオーリに、ステファンは心の中で感謝した。ステファンが勝手に保管庫の鍵を開けたことや泣いたこと、しばらく起き上がれなかったことには、少しも触れなかったからだ。
「ふ、まあいいわ。さて、この中から何か手掛かりが見つかるといいけど」
メモ帳を繰るトーニャの表情は、笑いを含んでいる。心を見透かされているようでステファンは不愉快だったが、ここは我慢して力を借りるしかない。
「トーニャ、くれぐれも言っとくけど、これは仕事として頼んでるわけじゃないから」
オーリは油断なく魔女トーニャの手元を見ながら、釘をさすように言った。
「当たり前よ。いくら魔女がゴシップ好きでも友人探しまで記事のネタになんかしない。そのくらいの節度はわきまえているわ。それより問題はオスカーの手紙ね」
「んー、わからないことだらけなんだよなあ」
ユーリアンはさっきから辞書とオスカーの手紙を何度もひっくり返して見ている。裏表紙の見返しと一続きの遊び紙が、綴じ代を僅かに残してきれいに焼き切られている。
「最初にオーリからこの手紙を見せられた時にもいろいろ調べたけど、おかしいと思ってたんだ。紙の繊維が、罫線に対して横目になってる。つまり本来なら縦長で使うべき紙を、わざわざ横にして使ってる。なぜだろう、とね。まさか辞書の遊び紙を使ったとは思わなかったよ」
「ぼく、その手紙には続きがあると思ってた」
『親愛なるオーリ』に続く12行の詩のような文面を、4人は見つめた。
この手紙を読んでいると言う事は
僕はまだ帰れないままということか
自らの心の命ずるままに探求の旅を続け
ミレイユには随分と叱られてきたが 悔いてはいない
ただ気掛かりなのは 息子のステファンのことだ
彼には僕以上の素質がある
才能といってもいい
ただミレイユには理解できないだろうと思う
オーリ もし僕があと2年のうちに帰れなかったら
君に息子の将来を託したい
勝手な頼みで申し訳ないが
外の広い世界で存分に力を発揮させてやってくれないか
「わたしもだ。最後の行のすぐ下が焦げてるものな。ページを焼き切ったとは……普通に切ったり破いたりできなかったってことか?」
「それもある」
ユーリアンは丹念に焦げ跡を透かし見た。
「トーニャが言うには、これは古い魔女が祭文に使った特種な紙だそうだ。ドラゴンの油を漉きこむらしい。黒い焦げ色はその脂肪分が燃えた、炭素の色だよ。この紙には言葉を守る力があると言われているけど、手で引っ張ったくらいではもちろん破けないし、刃物を当てようとすると逆に呪いを受ける」
黒く大きな瞳が輝きを増した。
口元から、さっきまでのユーリアンとは違う重い声がもれてくる。
「・・・・・・オーリ、もう魔法は解かれたわけだし、辞書を分解してみてもいいかな」
忘れていた。彼もまた、職業魔法使いなのだ。ステファンはごくりと唾を飲んだ。
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