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河津桜の色
河津桜の色 ゆい子
一月の寒い夜、私が仕事を終えて帰宅すると、部屋の景色が変わっていた。
一緒に暮らしていた彼の荷物がすべてなくなっていて、二人用の小さいダイニングテーブルの上には一冊のスケッチブックと、中学生が使いそうな色つきリップが一本、置いてあった。
私は震える手でそっとスケッチブックを開いた。
一ページ目には薄紅色の花。水彩画だ。
二ページ目には彼の筆跡があった。
『ありがとう。幸せだった』
中里さんと私の出会いは、彼の離婚がきっかけだった。
私達は同じ会社に勤めていたが、総務部の私と、食品管理の彼は接点がなく、会ったことがなかった。
彼が離婚した際、会社での必要な手続きに対応したのが私だった。
その日、食品管理部に電話をすると、彼はすぐつかまった。電話で話をするのは二度目だが、実際に会ったことはなかった。
「総務の朝比奈です」
「ああ、はい。朝比奈さんいなかったんで、書類、総務の人に渡しましたけど」
「はい、いただきました。で、不備があったのでお電話いたしました」
「不備?」
「提出していただくもの、という用紙、チェックを入れながらご用意いただけるように作成してあるんですが」
「・・・・知ってます」
「チェックは入っているんですが、元奥様の保険証が入っておりませんでした」
「・・・・」
「中里さん?」
「・・・・それ、ナシで」
「は?」
「だから・・・・ナシで」
「あの、保険証は必ず返却していただかないと困るものなんです」
「じゃあ朝比奈さんが受け取りに行ってよ」
「私の奥さんではないんですが」
「あのさあ、受け取るために会うくらいだったら、別れてないよ」
「では郵送してもらってください。書留で」
「そんなの頼めるくらいなら、別れてない」
いったいどんな別れ方したんだ。
「でも保険証の返却は義務です」
「いいかげんにしてよ。納品に手違いが出たら朝比奈さんのせいだからね!」
ガチャン。
切った?
呆然として受話器を見つめている私を、隣の席の田村先輩が笑いをこらえてチラチラ見ていた。
「中里さんの担当、私にならなくてラッキーだったなあ」
先輩のラッキーは私のアンラッキーの上に成り立っている。
一方的に電話を切られてから十日後。総務のカウンターに黒縁の大きな眼鏡の男性がやってきた。
四十代半ばくらいのその男性は、非常に不愉快そうに眉間に深い皺を寄せて
「朝比奈ほの香さんて人、います?」
とぶっきらぼうに大声を出した。
「朝比奈は私です」
恐る恐る返事をすると、不愉快さんはポケットからカードを出して、カウンターに置いた。
「遅くなってすみません」
先程とは真逆の、ギリギリ聞こえるかというくらいの小声で、彼は呟いた。
そのカードが保険証であることと、名前のところの苗字が「中里」なのが目に入り、私は思わず
「げっ、中里さん!」
と一歩後退してしまった。
中里さんは薄目になって私を睨み、
「げっ、てなんだよ」
とまた呟いた。
「あ、すみません。『代わりにお前が取りに行け!』ガチャン。・・・・の中里さんが保険証を持ってきてくれるとは思わなくて・・・・」
「あー・・・・すみませんでした。妻・・・・元、妻に叱られました」
「話したんですか?」
「まあ・・・・保険証をもらいに行って、ちょっと話したら、なんかすげー叱られて。で、これ、お詫びに渡せって持たされました」
いい大人が子供みたいだな、と思いながら、中里さんがカウンターに置いた紙袋の中を覗くと、カツサンドが沢山入っていた。
「おいしそう。いいんですか?」
「・・・・たぶん」
「中里さん、お昼に一緒に食べましょ?」
「え」
「あ、ダメですか?」
「あ、いや・・・・」
私はキャベツたっぷりのカツサンドを見て、このチョイスは元奥様から中里さんへのものだな、と思ったので、軽い気持ちで誘ってしまったが、中里さんは真っ赤になって、重そうな黒縁眼鏡をずり上げた。。
私達はこの日、中庭で一緒にカツサンドを食べた。
中里さんの印象が最悪からスタートしたので、これ以上印象が悪くなることがなく、些細なことでもどんどん加点されていった。
私達はスマホにメッセージを送り合うようになり、たまに休日にランチをするようになり、季節が一つ変わる頃に、おつきあいが始まった。
私達は毎週末一緒に過ごした。出かけることも多かった。
デートをしている途中で大きな文具店や画材店があると、中里さんは必ず
「ちょっとだけ寄っていい?」
と言った。
そして必ず水彩絵の具の赤色をいくつも手に取っては戻していた。
私もちょっと横から覗いてみたのだが、赤、と言っても沢山の種類があり、深く落ち着いた赤から、明るい朱色のような赤まで、ズラリと並んでいた。
「なぜいつも赤色を見てるの?」
私が尋ねると
「うん・・・・河津桜の赤が・・・・」
「河津桜?」
「あ、いや、なんでもない」
彼はそれ以上、なにも教えてくれなかった。ただ、なぜか少し照れたように笑い、重そうな眼鏡をずり上げるしぐさをして、顔を隠した。
数年後、私達は一緒に暮らし始めた。
彼は五十になり、私も四十代に入った。
籍を入れるかどうかはわからないが、一生一緒にいる相手になると意識するようになっていた。
一緒に暮らすことになったとき、床に座る生活が苦手な私はダイニングテーブルにこだわった。決して広い部屋ではないし、家族を増やすつもりもないから二人用のテーブルでいい、その代わり明るい色でシンプルで丈夫なダイニングテーブルと、セットの椅子がほしい、と言った。
炬燵でだらだら過ごす生活が当たり前だった彼はなかなか理解してくれなかったが、私が譲らないので、許可してくれた。
代わりに彼は、狭くていいから一人の部屋がほしい、と言った。一部屋余分に用意するとなると家賃はずいぶん上がる。困っていると彼は間取り図の、ある部分を指差した。
「ここ、僕にください」
「それ、納戸だよ」
広い納戸のあるマンションだったが、あくまで納戸だ。いや、ウォークインクローゼットか。
私が許可すると彼はとても喜んで、しばらく間取り図を眺めては、重そうな眼鏡をずり上げていた。
彼との生活は順調だった。私は仕事に特に変化はなかったが、彼は忙しくなった。食品管理部と関わりの多い開発部とうまくいっていないらしく、彼はイライラしていることが増えた。
そんな時期と重なって、彼の実家のお母さんから電話がくることが増えた。
「一度、週末に帰ったら?」
遅い夕食を向かい合って食べながら、私は言った。彼はとても疲れた顔をしていた。目が落ちくぼみ、クマがくっきり目立っていた。
「八十になるお母さん、一人暮らしなんだよね?」
「わかってる」
彼は眉間に皺を寄せた。
「私、一緒に行こうか?」
「いや、遠いから」
「でも伊豆でしょ?」
「河津町は伊豆の南のほうだよ。遠いよ」
「だったらなおさら一緒に・・・・」
彼はバンッとテーブルを叩くように音を立てて箸を置いた。その音が部屋中に響いた。
「河津に帰ったら、たぶんもう戻れなくなる。そんな気がする。それはほの香と別れるってことだ。この生活も終わりになるってことだ。ほの香はそれでいいの?」
彼は狭い自室に飛び込むと、しばらく出て来なかった。
それでも結局、週末に彼は実家に帰った。
「様子を見て、話し合ってくるだけだから。日曜日の夕方には帰ってくるから」
彼はまるで決意表明のように力を込めて、日曜日の夕方には帰ってくる、と繰り返した。
「わかったってば。夕食作って待ってるよ」
私は軽く、笑顔で送り出した。
ドアが閉まった瞬間、フッと私の顔から笑顔が消えた。
もしかしたら、もう一生笑うことはないかもしれない。いつか私は笑いかたを忘れるかもしれない。
私は急いでコートを羽織り、スニーカーを履いて、彼を追いかけた。
彼はマンションから近い歩道橋の上を歩いていた。
私は子供の頃以来の一段飛ばしで階段を駆け上がり、上りきると彼の名を叫んだ。
「な、中里、さん!」
振り返った彼が驚いて、駆け寄ってきた。
「どうした?僕、酸素吸入器持ってないんだけど」
あまりにも苦しそうに息切れしている私を見て、彼は本気で心配した。
「だ、だいじょう、ぶ」
「そう?で、どうしたの」
「改札の、前まで、送る」
「・・・・そりゃ、どうも」
私の息切れがおさまってから、私達は肩を寄せ合って、駅まで歩いた。私が無理矢理手を繋ぐと、彼は重そうな眼鏡をずりあげようとし、右手に大きい鞄、左手は私に繋がれて、両手がふさがっているので、眼鏡をずりあげられず、仕方なく照れた顔をぷいっと背けた。
日曜日の夜。
いつにも増して静かだと、私は思った。この時間を一生覚えておこう、と思った。
夕食のあと、ダイニングテーブルに向かい合って座ると、彼は静かに話し始めた。
「仕事をやめて河津に帰る。母親の介護をする」
「・・・・うん」
テーブルの下で、私は両手をギュッと握った。予想していたが、涙をこらえきれない。
「話さなかったけど、ほの香、気づいてたよね?母親は大腿骨を骨折して入院してる。今はリハビリ専門の病院に移ってる。もちろんある程度動けるようになってから退院するんだけど、年齢的に完治は見込めない。介護が必要になる」
「・・・・うん」
「田舎だから職もあんまりなくてさ。でも近所の人の好意で、スーパーで働けることになった」
たった三日で仕事まで決めてくるんだ・・・・。
悲しすぎて嫌みを言いたくなる気持ちをかろうじて抑えた。
「ほの香、ごめん」
「・・・・大丈夫。いつかは終わるって思ってたから」
嘘だ。一生一緒にいる相手になるだろうと勝手に信じてた。彼しかいない、彼じゃなきゃダメだ、と私はよく知っている。照れて眼鏡をずりあげるしぐさを、一生隣で見ていられる幸せは、なくならないと思っていたのに。
「いつ、ここを出ていくの?」
「明後日までには。会社にはもう話してある。明日、退職届を出すだけ。引き継ぎもしてある」
「早いね」
「こうなると思ってたから、準備してた」
それから長い沈黙が流れた。
私は一番言ってほしい言葉を待った。彼が言わないことはわかっていたが。
「ねえ、ついてきてほしい、って言わないの?」
私は勇気を出した。声が震えて、うわずった。
「・・・・言わないよ」
「そんなに好きじゃなかった?」
「ほの香を介護要員にするために結婚するなんて、僕にはできないよ」
彼はダイニングから離れ、狭い自室に入り、扉をパタンと閉めると、翌朝まで出てこなかった。
彼の大泣きする声が扉の隙間から漏れていた。
仕事を終えて帰ると、彼の荷物はすべてなくなっていた。
寒い寒い一月の夜。がらんとした部屋は一層寒く感じた。
ダイニングテーブルの上にはスケッチブックと、リップクリーム。彼はどんな気持ちでこれを残していったんだろう。
スケッチブックの表紙をめくると、薄い赤に思わず見とれてしまう。満開の桜?いや、桜にしては色が濃い。
あ、河津桜。
私は彼がよく画材店で赤い絵の具を探していたことを思い出した。
彼の故郷の河津桜は寒い二月に満開になる早咲きの桜で、色が赤っぽいと聞いたことがある。
それにしてもなんて美しい色だろう。元々は深紅だったんじゃないか、と思わせるような、混じりっ気のない赤が、時が経って少しずつ抜けていき、抜けきらなかった赤。いや、紅色(べにいろ)というのか。なんて艶っぽい紅の色。
私は次のページをめくった。そして息を飲んだ。そこには彼からの最後のメッセージがあった。
ほの香へ
ありがとう。幸せだった。
初めてほの香を見たとき、僕は河津桜の色の唇が似合う人だと思った。一目惚れだった。どうか気持ち悪いと思わないでほしい。
子供が使うような安物のリップクリームだけど、この色が一番河津桜の色に近い。奥ゆかしくて、でも色気のある、薄紅色。
このリップをつけたほの香を見られないことを、残念に思う。
彼が一人になれる部屋を欲しがった理由が、やっとわかった。
何度も何度も失敗しながら、河津桜の色を紙の上に再現するためだったのか。
いつか私にプレゼントしようと考えてくれていたに違いない。まさかお別れの品になるとは思いもせずに。
私はおもちゃみたいな色つきリップを手に取り、洗面台へ向かった。
小刻みに震える手で、なんとか唇にリップを引いた。
鏡の中の私は涙でぼやけていた。
似合ってるのかどうかわかんないよ。中里さんが判断してよ。
私はスケッチブックとリップクリームを握りしめて、一晩泣き明かした。
伊豆急下田行きの電車に乗るまでに、既に私は疲れていた。
遠い。遠すぎる。
しかも伊豆急行に乗ってから河津までがまた遠い。
ずっと海と山しかないの?このまま河津まで?私、倒れそうなくらい疲れた。もし追い返されても帰る体力はない。
河津駅からはタクシーに乗った。もうフラフラだった。
さすが田舎町。運転手さんに中里さんの名前を出しただけで、家まですぐ運んでくれた。
「あんた美人さんだねえ。あ、セクハラか?」
おじいさんの運転手さんは、久々の話し相手に上機嫌だ。
「いいえ、ありがとうございます。たぶん、この色つきリップが私を五割増しにしてくれてるんですよ」
「ほう、そうかい。あんた、中里さんとこの息子の恋人かい?」
「いや、嫁です!予定だけど」
「予定?そりゃ大変だ。おじさん、応援しちゃう」
「頼もしい。よろしくー」
そんな話をしているあいだにタクシーは中里さんの家の前に到着した。運転手さんはタクシー代を少しまけてくれた。
私はタクシーを降りる直前に、コンパクトで唇を確認した。
よし、きれいな唇。
「がんばれ」
運転手さんが振り返って、そう言ってくれた。
私は緊張しつつ、彼の家の土地に足を踏み入れた。
すると庭の奥から、彼が洗濯かごに洗濯物を山のように入れて、玄関に向かってきた。
「・・・・」
「・・・・」
おたがいの姿を認めたのに、私達はどちらからも声を発しない。
ああ、やっぱり私はこの人以外はあり得ない。一生一緒に過ごす人はこの人だけだ。
「リップ、つけてみたけど?」
ようやく私が声をかけると
「似合うの、わかってたから」
と彼は呟いて、重そうな黒縁眼鏡をずりあげるしぐさをした。
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