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大島 裕之
「琢磨さん、いらっしゃい」美穂子は相変わらず屈託のない笑顔であった。結局、琢磨は裕之に言われるまま、彼の家に来ることになってしまった。いくら人妻だとしても、やはり初恋の女性には未練は残っているものであった。
「おう、琢磨!遠慮せずに上がれよ」奥のほうにあるリビングから裕之の声が聞こえる。
「どうぞ」美穂子は前に少し屈むと、琢磨の目の前にスリッパを一組用意した。その時、一瞬目に入った美穂子の胸元に目が釘付けになり、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「なんだ、美穂子のおっぱいを見て欲情でもしたか?」奥から出てきた裕之が、ニヤニヤ笑いながら、近づいてくる。
「そ、そんなんじゃ・・・・・・・、ねえよ・・・・・・」琢磨はバツが悪そうに下を向く。
「あなた、そんなに虐めては琢磨さんが可哀そうよ。さあ、琢磨さん上がって」美穂子は何事も無いように、微笑みながら琢磨を即す。まるで、琢磨の事は、男として意識してませんと言っているようなものであった。
「お、お邪魔します・・・・・・・」琢磨は下を向いたまま、靴を脱ぎスリッパに足を差し込んだ。
リビングの通されると、そこには鍋が用意されていた。
すき焼き。
それも、見るからに上等の肉である。こんなに綺麗な肉を琢磨は見たことが無かった。
「座れよ」裕之が琢磨に自分の隣の席に座るように指図した。目の前に座る美穂子が手際よく、すき焼きの調理をしていく。部屋中を甘い香りが漂ってくる。
「いいだろう。俺の嫁さん」そんな事は言われなくても解っていると言わんばかりに、琢磨は悔しそうに頭を垂れる。
「ふふふ、あなたったら・・・・・・・」美穂子は満更でもない顔をする。その表情が、また琢磨の胸の内をえぐるような感じがした。
「そら、出来たみたいだから、食えよ」裕之は琢磨の目の前の器を手にすると、勝手に盛り付けてから琢磨に差し出した。
「あ、ありがとう・・・・・・・」琢磨はそういうと、器を受け取り箸で摘まんだ肉を噛みしめる。その肉は、未だかつて口にした事の無いとろけるような味がした。それがまた、自分と裕之の大きく開いた差のように感じる琢磨であった。
「なあ、琢磨・・・・・・・、お前、美穂子の事好きだったんだろ」彼女に聞こえないような小さな声で裕之が囁く。その言葉に、琢磨の橋を動かす手が止まる。
「・・・・・・・お、俺は・・・・・・」答えられない。
「俺にはお前の心が手に取るように解るんだよ。お前は、今でも美穂子の事が好きだろう」琢磨の思考はフリーズしている。「でも、今は美穂子は俺の物なんだよ。妬ましいだろう、悔しいだろう。解るよその気持ち」裕之は言いながらニヤニヤと笑っている。
「なに、男同志で何をヒソヒソ笑っているの?」美穂子は空になった裕之のコップにビールを注いだ。その阿吽の呼吸のように彼女に対応される裕之に激しい嫉妬を感じる。
「お、俺・・・・・・帰る・・・・・・」琢磨は立ち上がると、玄関に向かう。
「そうか、気を付けて帰れよ」裕之は口だけで止めようとしたが、席からは立ち上がらなかった。その、何もかも理解しているような態度に更に怒りを覚えた。
「ちょ、ちょっとどうしたの?琢磨さん・・・・・・・・、あなた
琢磨さんが帰っちゃうわよ」美穂子が少し慌てて玄関先へ、琢磨を追いかけようとする。
「大丈夫だよ、ほっとけって・・・・・・・、どうせ帰って、またゲームでもする気だよ・・・・・・・・。それしかやる事が無い男なんだから・・・・・・・・」コップのビールを全ての飲み干した。
「で、でも・・・・・・・」美穂子は玄関から出て行く琢磨を目で追ったが、彼は振り向きもせずに外に飛び出していった。
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