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11
結斗は別に純に感謝されるようなことは何ひとつしていなかった。
文字通り赤ちゃんのようにぐずって、純がつらいのが嫌だと言っていただけ。
純は背中に引っ付いていた結斗を引き離して振り返る。
「純?」
二人して楽譜の散らばった床の上に座っている。純は結斗の顔を真正面から見た。同じように泣いていると思っていたのに、純の変化は目を少しだけ赤くしているだけで涙は流していなかった。
こっちは泣いて顔面ぐちゃぐちゃなのに。ちょっと悔しい。
純の三重瞼。目の下に長いまつ毛の影が落ちている。薄いピンク色の唇が綺麗に弧を描く。
純は、もういつもと同じように笑っていた。仕方ないなって少し揶揄うような声。
「ほら泣くなよ。お前いくつだよ」
「純と同じ」
学校の制服の下に着ている白のセーターの袖で涙を拭われる。けれど涙は止まらない。
「だよなぁ」
純はそう言って、なんだかばつのわるいような顔した。
その後、なんの前触れもなく涙で濡れていた結斗の頬に唇を押し当ててきた。
「純?」
その唇の温度は握り返されていた純の左の手のひらと同じ温度だった。
さっきまで冷たかったのに熱が戻っている。温かい手。
――き、キス、された?
その事実に気づいたあと結斗の頬が熱くなった。純の唇の温度が思い出せないくらい。
「ゆーい、涙止まった?」
くしゃりと頭を撫でられる。
驚いて涙が引っ込んでいた。
「ば、バカだろ、な、何やってんの」
「びっくりすれば、涙って止まるだろ」
実際止まったから言われるままに頷いていたし怒るのも変な気がして「そうかよ」と返した。
純にキスをされたことより中学生にもなって幼馴染の前でボロ泣きしたことの方が恥ずかしかった。
純の前では、たくさん恥ずかしい自分を晒していた。
幼稚園のときは漏らしたこともあったし、例のクリスマスの件で服に吐いたこともあった。純の家の前の坂で自転車で転んで骨折とか。
恥ずかしい姿なら数えきれないくらい見せている。
恥ずかしいけど今更キス一つ追加されたくらいで大騒ぎするほどじゃない。
純に関して結斗は自他の境界が曖昧だった。
半分が純だった。
純が悲しいと悲しいし、嬉しいと嬉しかった。
そんな出来事があってしばらくたった頃。
本当に純がピアノ教室を辞めたと聞いて、結斗は急に冷静になって自分がした過ちに気がついた。「つらいならやめればいい」なんて、本気で音楽をやっている人間に他人が口出していいことじゃなかった。
結斗は純が苦しそうに一人でピアノを弾いている姿をみたくなかった。
ただそれだけの理由。
結斗のわがままで純のピアニストとしての未来を奪った。
そのことをいつか純に責められる気がしている。
――その時が純と離れるときなんだろうか。
罪の意識は長い間持っていた。同時に、その日が未来永劫ずっと来なければいいと思っていた。
自分だけの純でいてくれることが、この上なく幸せだったから。
* * *
音楽が無くても、結斗は、ずっと純を独り占め出来ると思っていた。
幼馴染って理由だけで。
中学は同じだったけれど高校は純と別だった。理由は単純に結斗が志望校に落ちて滑り止めの高校に行ったから。
純とは一緒に受験勉強をしていた。入試時点では、お互いそれほど学力に差はなかった。
純も併願で同じ高校を受けていたし、純が第二志望にランクを落とせば結斗と同じ高校に行くことも出来た。でも純はそれをしなかった。
結斗が同じ立場でも、わざわざ純と同じ高校にしなかったと思う。そんなことをされたら絶対に怒った。
純は結斗が一緒の高校に行けなかったのを残念がるどころか「仕方ないね」とあっさりしたものだった。
中学でも学校ではお互いのことには極力干渉していなかったし、純にも結斗にもクラスの友達が別にいた。だから、こんなもんだと思っていた。
お互いのことが一番大事だからこそ、自分たちの仲を誰かに邪魔されるなんて我慢出来なかった。それなら最初から遠い方が安心出来た。二人の時にお互いが一番だったら、それでいい。
まぁ、別の学校でもいいやって思えた。
自分たちの距離が他のクラスメイトたちと違うのは中学生になれば分かっていた。
幼馴染だとしても、こんなに四六時中ベタベタして仲がいいなんて普通じゃない。
結斗がお互いの家と同じノリで、馴れ馴れしく純の交友関係に入っていくことで、純に迷惑をかけたくなかった。
そんな理由で一度、高校は離れたが結局大学は、また同じになった。
お互いに誘い合わせて決めたわけじゃない。
――結斗。大学どこ行くの?
――K大学か、D大学。
――ふーん。
ってそれだけ。蓋を開けたら。
――不思議、偶然一緒だね。
――お前もっといいところ行けたんじゃねーの?
――俺の学力だとこんなもんだよ? あと家から近いし。
って感じになった。
近場で家から通える大学を選んで受験したと言っていた。結斗自身その純の言葉の全部が本当とは思っていない。
自惚れてもいいなら高校が別で純は寂しかったんじゃないかと思っている。
純と同じ大学でも学部は違うし百パーセントの確証はない。本当に偶然の可能性もあった。
結斗は、それでも高校の時と同じで外では、純と話す機会はないと思っていた。
お互いに講義が詰まっていた一年生までは大学で平穏に過ごしていた。
二年になり時間割に余裕が出てきたころ。急に純は大学で結斗に声をかけるようになった。
家の中では相変わらず子供の時みたいにベタベタしていた。でも外だと周囲の目が気になって仕方がない。
気を抜けば癖で、すぐに純に引っ付きたくなって困った。
この間、純が界隈で有名人だということを知ってから、さらに周りの目が気になった。
自分が一緒にいることで、純が変な目で見られやしないかって。
けれど、そんな結斗の気持ちを気にもせず、わざと自分の交友関係を見せびらかすように、あるいは高校までの空白時間を埋めるがごとく純は結斗と外で一緒にいようとする。
だから知らなかった「外の純」を知る機会ばかりに度々遭遇してしまう。
この日、午後になって一緒に帰りたいからと純にスマホで呼び出された。
学内のカフェテリアで待っていたら、純が入り口のガラス扉を開け颯爽と現れる。髪も含めたら全身黒だ。普通なら野暮ったく見える黒一色の服装なのに、純が着ると、すっきりと整って見えるから不思議だ。
長い足。歩くたびにロングコートの裾が揺れる。
そして嫌でも気づく。
(見られている。周りの人に、すげー見られてる)
元々、綺麗な男だということは知っていたが、そんなにパンダみたいに見たいか? と思った。
一番奥のエリア。天井まで一面ガラス窓。その横にある四人掛けの丸テーブルに結斗は一人で座っている。
手を振られて、それに振り返す。
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