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 二人きりで心地よく奏でていたはずの自由な音楽が、ゆっくりと崩れ始める。  桃谷結斗(モモタニユイト)は、この日まで幼馴染が何をしている男なのか全く知らなかった。  ――お前の友達さ、ストリート最速の男だろ。  全ては、この言葉から始まった。 「車?」 「違うって。前も話しただろ俺の趣味」 「趣味ねぇ」  食堂のテラス席はクリスマスも近くなると人はまばらだ。寒いし。空調の効いた暖かい室内席じゃなく、あえて外の席を選ぶなんて普通はしない。昼の一番混んでいる時間帯で、席がここしか空いてなかったんだから仕方ない。注文したのがラーメンだったから救われた。  結斗は学生の欲望を全て詰め込んだようなラーメンに舌鼓をうっていた。  コーンに唐揚げにもやしにチャーシュー。おまけに卵焼きまで乗っているラーメンは、最近学生のリクエストでさらにバターのトッピングまでもが追加された。  魔性のラーメンは、もう禍々しい魔物と化している。 (最速? そんな奴、友達にいたっけ?)  昨日、電子書籍でダウンロードした公道走り屋マンガが面白くて夜更かしをしたところだった。  ストリートで車で転がしてる友人なんて自分にいただろうかと、醤油ベースのスープがしみしみになったトッピングの唐揚げを咀嚼しながら頭の中で検索をかけてみる。  一人だけ免許を持っていて車の運転ができる友人はいた。  でも公道を攻めるような男でもないし、キレてスピード違反もしない。  本人の実際の顔は別として、この世の全てがつまらないような表情の免許写真だった。まだ取得して一年くらいだと思う。  何回か助手席に乗せてもらったけど運転は外見の印象そのままに丁寧だった。 「なぁ、この時間だったらまだ『桜花殿』いるんじゃねーの、俺SNSフォローしててさ、見に行こうぜ」 「俺、まだラーメン食ってるのー」 「じゃあ、それ食ってからでいいよ。けど桃谷もさぁ水臭いよな」 「だから何が?」 「友達なんだったら教えてくれればよかったのに」 「で、誰だよ。その最速の男って」 「この前一緒に廊下歩いてたじゃん。仲良さそうだったのに? ストリートピアニストの純」 「ストリート、ピアニスト」  篠山純(シノヤマジュン)のことは、姿形も細部まで鮮明に思い浮かぶ。一緒に過ごした時間が誰よりも長いから。  結斗みたいに染めて痛んだ茶髪じゃなくて、一度も薬品で染めたことのないサラサラの黒髪。鼻筋の通った顔。寝起きは二重が、三重瞼になる切れ長の目。  あとは、この季節だとオフショルダーの黒のチェスターコートを着ている。一体いくらくらいするのか庶民の結斗には一生縁がない服をいつも着ている。コートだけじゃない。純が身につけているものは、どれも上等な品ばかりだ。でも、それらを少しも嫌味なく着こなしている。本物のお金持ちって、純のような家なんだなって長年の付き合いで知った。  昨日も会ったし、このあとも会う予定があった。  簡単に当該人物を想像できるのに友人の瀬川が言う「最速の男」には一ミリも心当たりがなかった。 「純って、英文学科の?」 「やっぱり友達なんじゃん、紹介してよ」 「純を?」 「有名人とお近づきになりたい!」  そこからは、ずっと上の空でせっかくの大好きなラーメンの味がしなかった。  瀬川の話は半信半疑だった。純が世間で知られるような有名人だなんて信じられなかった。でも同時に「ピアノ」と言われて、あぁ良かったと思った。  よくカラオケに一緒に行く瀬川の口から聞いた親友の情報に、その瞬間「嬉しい」と「寂しい」の音が半分ずつ心の中に降ってきた。  楽しい音と悲しい音は簡単に想像出来たのに、複雑に入り混じった、その音は初めて聴いた音だった。  純だったら結斗の頭の中にある今の音をピアノで鳴らせるのだろうか?  純は結斗の前以外でピアノを弾かなくなった。そんな彼が再び人前でピアノを弾いていることを知って嬉しいと思う。  同時に罪の記憶が呼び起こされた。  純とは時間があれば、いつも一緒にいたし家族同士も仲がよかった。  知らないことといえば、お互いの「初恋」くらい。自負もある。だから結斗が知らない幼馴染の一面を瀬川の口から知ったことがショックだった。  結斗はランチが終わったあと瀬川に連れられ、大学のキャンパス内にある『桜花殿』にやってきた。見慣れた白いフランス様式の木造建築物は、大学の設立時に建てられた記念館で学生たちが自由に出入りすることが出来る憩いの場だった。  昼休憩も終わり午後一の講義も始まっている時間だというのに、建物のなかに入ると多くの学生たちが集まっていた。  入ってすぐのホールの中央には誰でも自由に弾くことが出来るグランドピアノが置いてる。  普段は児童学科の学生たちが楽しそうに授業の課題曲を談笑しながら弾いている。  今日は、その学生たちが少し離れたところでピアノを中心にして輪になり演奏者を見守っていた。  何だか異様な空気に満たされていた。 (あ、本当にいた)  その輪の中央には結斗がさっき食堂で想像した通りの姿で純が座っている。  黒のチェスターコートがフォーマルの燕尾服のように見える。その見慣れた姿形の幼馴染を見て本当カッコいいなと素直な感想を持った。  結斗は親友が昔から「舞台人」であったことを思い出した。結斗が何を言っても言わなくても。純は、いつだってピアノの前に座っていた。人を魅せる。虜にする演奏。  目の前に座る人を幸せに、楽しい気持ちにさせる天才。  それが、嬉しいのに悲しかった。心臓が震える。キリキリと張り詰めて痛む。  昔から好きなものが嫌いになる瞬間には、いつもそばに純がいた。 「お、演奏間に合ったじゃん」  隣の瀬川は自身のスマホをピアノの方へ向けた。周りを見ると同じように純を撮影している人たちがいた。純は「そういうの」が嫌いなのだとずっと思っていた。  誰かから見られたり、騒がれたり。  一音目で周りが引き込まれるのが分かった。広いコンサートホールでもないのに、ピアノの屋根は全開で音がよく響く。  きっと風に乗って表通りの向こうの校舎まで音が届いているだろう。 「……ショパンの英雄ポロネーズ」 「なに、お前、クラシックわかるの? お前もピアノ弾けたりする?」 「弾けないけど」  いつも純が弾いてくれるから結斗は弾かない。  ポーランドの民族舞曲。  始まりは、ぞわぞわする。今の結斗の不安定になった心とシンクロした。曲想なんて大袈裟なことは分からないけれど、ロマンチックな旋律の美しさより結斗には終始、聞く人のいない孤独な独り言みたいに聞こえる。淡々と誰かに語りかけるけれど相手はいない。
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