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件の動画配信の件で純が急に遠くに行ってしまった気がして不安だった。甘えられて、頼られて、たったそれだけのことで簡単に心が落ち着いてしまう。
子供の頃から思考回路も、やっていることも同じ。純が近くにいれば無条件に大丈夫な気がしてしまう。
隣に座ると手を繋ぎ直される。右手と左手。純は結斗の手をぎゅうぎゅう握ってきた。その手がいつもより熱い。
ピアニストの大きな手だ。しなやかに長い指には適度に筋肉が付いていて、ピアノを弾く時の繊細な印象と違い、しっかりとしていて硬い。
「なー、純、酒好きだっけ、いつもそんな飲まないじゃん」
「酔ってるってことにした方が、結斗はいいかなって思ったから」
「何が?」
「昼間、話あるって言ったでしょう? 結斗、もっと、こっちきて」
猫じゃないんだけどと思いながらも、間を詰めて純の近くに寄った。
「俺はさ」
「うん」
純は、ぽつり、ぽつりと話し始める。
隣に座る純は酒のせいで少しだけ頬がピンク色になっている。濃い灰色のセーターに黒のチノパン姿。見慣れた姿なのに何だか落ち着かない。
さっきまで手にあった缶チューハイは、手を繋ぎ直したとき、近くのローテーブルの上に置かれていた。
「この先も、このままでいいと思ってたけど、まぁ黙ってても遅かれ早かれ、いつかは分かることだし」
結斗は直感的に純の話をこれ以上聞きたくないと思った。
結局のところ何も言わなくたって、自分も純もお互いのことを分かっている。
何か様子が違うなとか、言いたいことあるんだなとか。
――一緒にいたいとか、いたくないとか。
子供みたいな話を今さら素面でなんて出来ない。二十歳を過ぎた大人だから。子供じゃないから。
だからといって今すぐにしなくてもいいと思った。
(そう、だよな。俺、変、だもんな。普通じゃない)
ただ変だとしても結斗は今の時間が、ずっと続けばいいと思っている。外では普通を装うから。この部屋でだけは。
一緒に、出来るだけ長く幼馴染の関係でいたい。今のまま。
もう少しだけ待って欲しかった。結斗が大人になれるまで。純みたいに一人で大丈夫になるまで。
今が幸せだから。
「……このままって」
至近距離で視線が交差する。純は酔っていると言っていたけれど、本当は酔ってない気がした。バイバイって言われる時は、もっと悲しい顔をしないといけないのに純はなぜか、困った顔をして笑っていた。
その純の顔には覚えがあった。純が中学生でピアノを辞めることを決めた日。
結斗が辞めればいいって言った日。
泣いて、ぐずって、甘えた。
甘やかされた。
ばつが悪い顔。結斗が不安になると純がする顔だった。こんなふうに困らせたくないのに、どうしても大人になれない。
「俺は、ちゃんと覚悟決めたから。結斗も考えて、この先どうしたいか」
「どうって、だって、純が一人で大丈夫になって、遠くに行くって話だろ」
「――買い被りだよ。俺は一人だとダメだ」
「嘘だ」
一人で黙って動画配信者になって有名人になっていた。結斗に言われて辞めたピアノをまた外で弾くようになった。結斗に秘密で黙ったまま。それが証拠だ。
もう一人で大丈夫だって。ベタベタな幼馴染がいなくても。
「俺はこのままでいい、このままがいい」
「ゆい……」
多分、酔っている。言いたいことがまとまらない。
小さな子供みたいに拗ねていた。口からこぼれ出る幼稚な言葉が恥ずかしい。自分がいない世界でも楽しくやっている純を知った。寂しかった。苦しかった。
じゃあ自分はこの先どうしたいのか、どうなりたいのか。
そこに純がいないと不安になる。
「それが結斗の答え?」
純は困ったな、伝わらないと言って小さく息を吐いた。
いつまでも今のままではいられない。子供の時は許されても、いつかは、それぞれの道で生きていく。
純は、ピアノで。
自分は? 考えて、何もなかった。
分かっていたこと。純は優秀で、なんでも持っている。何もない自分とは最初から生きている世界が違う。けれど小さい頃は、それでも噛み合っていた。
今は気持ちのいい音が鳴らせない。不協和音になる。
それが成長で、大人になるってこと。仕方ない事だと頭では理解してしても純と同じになれないことが寂しい。
「俺だけ、一人になるんだろ。嫌になったんだろ、幼馴染なんて」
結斗は純の目を見てそう言った。怖かった。一人にしないでと言いたかった。
「違うよ」
どうすれば、このままでいられるのか知りたかった。
「また、そんな顔する。それに、どうして俺がどっか行くって話になるの? 酔ってる?」
「なんで、分からないんだよ、ばかっ」
純は結斗の頬をぺちぺちと優しく叩く。
「またそれ。王様か。分かってないのは結斗だよ。頭を撫でて、手を握って、抱きしめて、ここにキスした」
純は結斗の頬を人差し指でなどる。純が指で触れたところが、じわりと熱を持った。忘れたことはない。純がキスしてくれた日のこと。
「幼馴染のお前に俺ができること、もうあんまり残ってないけど、どうするの?」
「っ、だって」
「そういう、話です。分かった?」
純は結斗の頬に手を添えて、ゆっくりと唇を重ねた。
一瞬だけ唇に感じた熱は、すぐに離れていく。中学生のとき、結斗を泣き止ませるためといって、同じことをされた。
びっくりしたら泣き止むから。
実際その通りだった。驚いた結斗の涙は、あの時はぴたりと止まった。
昔されたキスは、頬だった。
今度は唇。純が言った通り、もう残っていなかった。これ以上もっと近くにいる方法が。
「どう、これで寂しくなくなった?」
唇へのキスなんて、なんでもないことのように、純は結斗の猫っ毛をくしゃりとかき混ぜた。結斗を安心させるように。
「心配しなくても、俺は遠くに行ったりしないよ」
「……純」
「まぁ、結斗は、まだ俺とこのままがいいらしいし。だから、この話はこれでおしまい」
「ッ」
息が詰まる。安心なんて出来なかった。キスだけじゃ、まだ不安だった。
「水持ってくるよ」
純はそういってソファーを立ち上がった。
このままだと、また遠くなると思った。結斗は純の手を握って引き止めていた。
「結斗?」
「俺……あのな」
「うん」
不安になったり寂しくなったり、年を経るごとに近くなる距離。離れそうになると、近づいて、純は結斗に安心をくれた。
今回も昔と同じように結斗のよく分からない不安を和らげようとしてくれた。
けれど、行き着くところまで、行き着いた先には、もう安心なんてなかった。
近くなれば近くなるほど、今度はその先を考えて不安になる。
抱きしめて、手を握って、額に、頬に口付けて。最後に唇を重ねたとき、結斗のなかの何かが壊れてしまった。
「……行かないで」
純の目をまっすぐに見て、今度は結斗が純をその場に引き止めていた。
目が潤む。涙がじわりと浮かんだ。
「結斗、何、吐きそう? ごめん。酔ってたのに変な話して」
「嫌だ……嫌だよ」
「ゆい……」
また子供の時と同じことを言っていた。
「どう、したら、このまま、一緒に純といられる、の」
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