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 その場に一人残された結斗は幻でもみたような気持ちになった。  そんなふうに幻のように思っているのに、結斗は何故か今もあの日の映像を思い出してしまう。そして、その数秒の映像は、折に触れ結斗の股間を誤作動させた。  自分がみたことのある、どのアダルトビデオより刺激的で心臓に悪い映像。  どこで間違ってしまったのか結斗は最近よく考える。  純の自慰を見てしまったことが、きっかけかもしれないと思った事もある。  純は綺麗だから。  あれが一種の倒錯的な感情を自分に植え付けたのだとしても、おかしくはない。ただ同時に男として生物的に当たり前である純の自慰行為一つを見たくらいで、とも思う。  きっと一緒に過ごした長すぎる時間。  少しずつ、間違えてしまった。  結斗は、時間が原因だと思っている。  けれど、二人で過ごした時間は、どこを思い出しても、全てが温かくて、幸せで、純がくれたものに間違いなんか見つからなかった。少しの瑕疵もない。  結局、自分の持っている心だけが、間違っている気がしてならなかった。 + + + +  目を覚ましたくない朝だった。  けれどベッドの隣から時間通りに抜け出した純は、いつも通りに身支度を済ませていく。結斗はベッドで狸寝入りを続けていた。先に出かけてくれないだろうかって思った。  しばらくして一階から地下に戻ってきた純は、なぜかピアノの前に立った。  布団から少し頭を出し隙間から純の様子を伺った。  グランドピアノの蓋を全開にする。右方向には結斗の寝ているベッドがあった。  準備が終わると発表会みたいに椅子に座る。純の背がきれいに伸びていた。  そこから、すっと息を吸う音が聞こえた気がした。  昨晩の少しの気まずさを問答無用で破壊したのは、ストラヴィンスキーのペトルーシュカだった。けれど、ちょっと違う。  出だしのところを何回も何回もしつこく弾かれる。ガンガンガンガン。  フォルテ・フォルティッシモ。  ――目覚まし時計かよ!  防音室だし近所迷惑にはならないけど、朝からうるさい。 「ウルセェ!」  体を起こして叫ぶと純は笑いながら、やっと続きを弾き始める。おもちゃ箱みたいな楽しい音。昨日の余韻を払拭するように明るい陽気な音楽だった。  音で殴られた。近くにあった純の枕を投げたがピアノが置いているところまでは届かなかった。  のろのろと歩いてピアノの横に立つ。 「おはよう、結斗」  クラシックに詳しくなくても純が話してくれるから、結斗はいつの間にかいろんなことを覚えていた。  ピアノが弾けなくたって、なんの才能もなくたって、純は変わらずいつもそばにいてくれた。 「……は、よ」 「目覚めの気分はいかが? 二日酔い?」 「新聞紙で後ろから殴打されたあと、往復ビンタされて、階段の上から背中蹴られて突き落とされた気分」 「まぁ、そんな感じに弾いてるからだけど、結斗の楽曲分析は個性的だね」 「……そう」 「まぁ、俺は好きだよ」 「なんか、それ、もっと、軽くて、キラキラした曲じゃなかったっけ、どうして出だしがバケツ叩くような重い音になるんだよ」  純の家のピアノは最近よく音が変わる。  子供の頃にあった例のスタインウェイさんと今使っているピアノとの違いみたいな話ではなく。色が違うと感じることがあった。  ピアノの音色。ミが赤色に感じるとか、ファ♯が黄緑とか。共感覚の一種だ。  それが純の弾き方のせいなのか結斗が知らない間に、違うピアノになっているのかは分からない。純のピアノの音色は、いつだって楽しい色だった。 「結斗のために、弾いてるからね」 「……なんだよそれ」 「今は、結斗にさっさと起きて欲しかったから、そういう演奏にした」  結斗の寝起きの頭がしっかりしてきた頃、演奏は途中で終わった。 「え、最後まで弾かないのかよ」 「聴きたいなら弾いてもいいけど。ところで結斗、今日は朝から講義とってなかった? 金曜日だけど」  純に言われて慌てて床に放り出してあった自分の黒のデイバッグからスマホを取り出す。スケジュールを見ると社会学の講義が入っていた。 「……やべ、二限入れてた」 「起こしてあげたんだから、感謝してよね」  したり顔で言われて、あぁ、いつも通りの純だなと思う。  気を使われたのかもしれない。 「うん、ありがと」 「今日は素直だなぁ」 「な、なんだよ」 「別に。ほら朝ごはん作ってるから、さっさと顔洗っておいで」  純はそういうと自分の荷物を持って、先に一階に上がってしまった。  二限目の講義が終わった後、スマホの通知を見ると瀬川からメッセージが入っていた。  昼食の待ち合わせ場所の確認だと思ってアプリを見ると、メッセージの続きには友達連れていくけどいいか? と書いていた。  人見知りはしないし誰が一緒でも気にならないので、二つ返事で何も考えずに了承した。  スタンプを送ったあと、瀬川らしくないメッセージに、もしかして何か面倒なお願いでもされるのだろうかと頭に浮かぶ。  ――バイトの助っ人とか?  講義終了後の人の流れに逆らって別棟にある学生会館に向かった。  学内にある自分のバイト先でもあるカフェテリアに着く。入り口近くの四人がけに座っている瀬川を見つけて手をあげ、先に昼食を買いに行く。  いつも食べているお気に入りのラーメンに心惹かれながらも、毎日ラーメンをばかりもなぁと、券売機でふわとろオムライスを選んで引き換えた。  瀬川とその友達が座っている席の前に腰掛けた。 「桃谷ごめん、本当に、ごめん!」  席につくと瀬川に開口一番に手を合わせて謝られた。当然ながら結斗には謝られるような心当たりはない。  瀬川の隣には、ギターケースを椅子に立て掛けた、いかにもバンドやってます感のある男が座っていた。 「なに改まって。お金は貸せないけどさ、バイトの助っ人くらいなら……たしか瀬川引っ越しのバイトとかもしてんだっけ?」 「そうじゃなくて、俺、お前の歌録ってただろ」 「歌、あぁ」  酒と昨日の純とのあれこれで記憶がところどころ飛んでいた。確かに瀬川に録音を許可したのは覚えている。  けれど瀬川が趣味で結斗の歌を録音、加工して個人的に聴いているのは昔からだ。  今さら謝られるようなことでもない。高校の時からの付き合いだし物好きだとは思っていた。結斗の歌を好きだと言ってくれるのは純粋に嬉しかった。 「別に録ってもいいって言ったし、謝るようなことか?」 「じゃなくて、昨日俺、すげー酔ってて、こいつ学寮の同室で、軽音サークルの峰っていうんだけど」 「経済学部二年の峰でーす。すんません、瀬川に怒られて謝りに来ました」 「ども、現社二年の桃谷です」  底抜けに明るい、キラキラした目の前の男に若干引きながらも、形式的に挨拶を交わした。バチバチに耳ピアス、指にはシルバーリング。脱色した短髪。頭の先から足の先まで社交性で出来ているように見えた。
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