37.恩返し

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午前8時。両親が仕事に行くのを見送った真司は思い立った様にパソコンデスクへと向かった。電源を入れ、原稿用紙を立ち上げる。何となくだが、書きたいと思った。残したいと思った。どうしようもない人間の、無様な人生経験を。特に面白くはない。だが、数人くらいは共感してくれるかもしれない、そんな嘘偽りのない文章を。同時に、そうする事により、心が落ち着いた。まず、何より客観的に自分を見つめ直す事が出来そうな気がした。大切な友達、厳しくも温かい父、優しい母、常に味方で居てくれる祖母、救いようの無い自分、裏切られた愛。喜び、悲しみ、怒り、挫折、無気力、感動、希望、劣等感、不安、絶望。ありとあらゆる感情を曝け出してみようと思った。 真司を取り巻く環境が、何か大きく変わった訳では無い。真司自体に何か大きな変化があった訳でも無い。相変わらずだ。相変わらず、毎日の様にゆきなの夢を見るし、夢の中で希望を取り戻しては現実に戻り失望させられる。思い知らされた。ゆきなの為なら何処までも強くなれ、そして頑張れたが、同時にゆきなの為に何処までも脆くなる自分を。この夢を一体いつまで見続けるのだろうか・・・。日に日に真司はやつれていっていた。 つい最近、近くのスーパーで買い物をしている時、小学校の頃の友達とばったり出会ったんだ。俺達5人ほどのグループはとても仲が良かったんだ。よく朝早くから釣りに行ったり、自転車で遠くまで無計画な無茶旅をしたり、とにかく楽しかった。グループ内で成績の良し悪しはあったものの、皆平等だった。あの頃は。誰かが誰かを上や下に見る事など無かった。無論それは真司も同じであった。 同級生が驚いた様に真司に声をかけてくる。最初は誰かわからなかった。しかし、よく見るとあの頃の面影がある。名乗ってもらわなくても すぐに誰か解った。同級生が歓喜の声を上げる。同時に俺も歓喜の声を上げた・・・フリをした。いや、正直に言うと、俺自身久しぶりに懐かしい友達に会えて嬉しかった。思い出話など腐る程有る。ただ、何となく、今のタイミングでは会いたくなかった。もともと成績の良かったその同級生は、今は役所で仕事をしているらしい。傍らには妻と双子の女の子が笑っている。同級生の顔は幸せに満ちていた。テンションの上がった同級生は「今何処に住んでるの?」「何の仕事してるの?」「結婚した?」 などとあの頃と同じ様に気軽に質問を繰り返す。それが、怖かった。聞かれたく無い質問が真司には山ほど有った。平等だったのに・・・あの頃は・・・。今となっては天と地ほどの差を見せつけられた。まともに同級生の目を見る事すら出来ない。質問の答えも当たり障りのない程度ではぐらかす。ほんの少しの会話を交わして、俺は逃げる様にその場を去ったんだ。 そんな事を思い出しながらも、真司はキーボードを叩き続ける。題名も既に決まっていた。2時間ほど経っただろうか、真司は無心に原稿用紙に文字を刻み続けた。そろそろ職業安定所へ行く時間だ。気がつけば朝起きてから何も飲み物を口にしていない。喉の渇きを感じた真司は冷蔵庫へと向かった。電気もつけず薄暗い部屋の中で、立ち上げたパソコンだけが唯一ほのかな光を放っていた。画面にはつい先程まで打ち込まれていた文字が映し出されている。真司のありのままを投影した文章。一切飾る事の無い、ありのままの出来事。その文章の題名にはこう書かれていた。 ーーーーーー最愛なる裏切り者ーーーーーー 澤田 真司 完
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