後ろ向きに走る犬

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後ろ向きに走る犬  うちには息子夫婦が贈ってくれた芝犬のチロがいる。  一人暮らしの私が寂しくないようにと、私の運動不足解消のためにと考えてのことだ。チロは顔を正面から見るとなんだか笑っているように見えて愛嬌があり、私は朝と夕方チロを連れて散歩に出かけるのが日課になった。  散歩に出かけるとチロは背中側に尻尾をくるんと丸めて姿勢良く嬉しそうについてくる。たまに私のスネのあたりに鼻をつける。自分の匂いをつけているのか、私の匂いを感じて安心しているのか。  神社の隣の誰もいない空き地に来ると、ボール投げをして遊んでやる。遠くにボールを投げると一目散に走り出して、器用にボールを咥えてまた戻って来る。私の足元にボールを置くと「どうだ!」と言わんばかりに尻尾を振って、もっと遊んでくれとなんどもせがむ。  そんないつもと同じ日だった。 「ほら、チロ取ってこい」私はチロのためにボールを投げてやった。だがチロは動かない。私をじっと見ている。 「どうしたチロ、ボール行ったぞ」  その時、チロが後ろ向きに走った。  私はその場に立ち尽くした。手にじっとりと汗をかき、呼吸が荒くなるのが自分でもわかる。  犬が後ろ向きに走るなんてありえない。  だが、私は以前同じような犬を見た。ずっと蓋をしていた50年前の記憶が蘇る。  父親と母親、お爺ちゃんと小五の私は丸テーブルの食卓でアジの煮付けとおみおつけで夕飯を食べていた。 「僕ね、今日、すごいもの見たんだよ」私は興奮した口調でみんなに話し始めた。 「何、どうしたの?」と母親が私の話に合いの手を入れてくれる。 「僕あんなの初めて見たよ」 「何だ、何を見たんだ? たぬきでも見たのか?」父親が私をからかって笑った。 「違うよ。もっとすごいものだよ」 「もっとすごいというと、ツチノコでも見たか?」 「違うよ。キングが後ろ向きに走ったんだ」  それを聞き、皆が箸を止めた。  キングというのは私が拾って来た野良犬だ。小三の時に学校帰りに近くの神社から私の後をずっとつけて来た。父親と母親に、散歩も餌も自分が責任をもってするからと約束して飼うことを許された。友達の家は遠く、まだ小さかった自分にはキングが唯一の友達となった。  すると、「本当か?」と今まで黙っていたお爺ちゃんが嬉しそうに話に入ってきた。  普段は頑固で口数も少なく怒っているようなお爺ちゃんだったが、この時は珍しく嬉しそうだった。 「うん。散歩に連れて行った時に、僕の方をじっと見てて、あれっと思ったんだけど、そしたら急に、後ろ向きにダッーと走ったんだ。僕びっくりしちゃったよ。走り終わった後もキングは僕の方をじっと見てたんだよ」  父と母は口を閉ざし何も言わなかったが、お爺ちゃんは一人「そうか、そうか」と何度もそう言って喜んでいた。  翌朝、父、母、お爺ちゃん、私が見守る中で、キングは得意気に後ろ向きに走った。 「ほらね。本当だろう」キングの姿をみんなに見せることができ、私も得意だった。 「あぁ、本当だ」父は喜んでいるようでも、驚いているようでもなく、何か諦めているような感じだった。 「これで、由美のところにも赤ちゃんが生まれるな」お爺ちゃんは嬉しそうにそう言うと納屋に向かって歩き出した。 「由美姉ちゃんと何か関係があるの?」  由美姉ちゃんは歳の離れた姉で、一昨年結婚したがまだ子宝には恵まれていなかった。 「あぁ」と父親が答えた。  お爺ちゃんが納屋から戻ってくると大きなスコップを手にしていた。私はスコップを手にしたお爺ちゃんを見て「何するの?」と尋ねた。 「なんだか可哀想ね」母親がそう言うと、 「馬鹿なことをいうもんじゃない」とお爺ちゃんは少し怒った。そして、「お前の役目だ。役目を果たせ」と言ってスコップを父親に手渡した。スコップを手にした父親からは冷たい感情が伝わってきた。微かに手も震えているようだった。  私はまだ何が起ころうとしているのかわからなかった。それでもお爺ちゃんの喜びと、母親の戸惑いと、父親の冷たい感情から、幼い自分にも何かが迫ってきているのは感じ取れた。私は父親が手にするスコップの意味を考えて恐る恐る聞いてみた。 「何するの?」 「これはね、嬉しいことなのよ」と母親が私の気持ちをおもんばかってか、それとも自分に言い聞かせるつもりだったのか、そうつぶやいた。 「・・・何するの?」私はもう一度聞いた。 「いいか銀史郎、これはな可哀想なことじゃないんだぞ」とお爺ちゃんは嬉しそうにそう言った。  私はお爺ちゃんの言った可哀想なことという言葉に心がビクンと反応した。目がかっと熱くなり、涙をいっぱいためて訴えた。 「やめてよ、キングは家族だろ」 「お前たちはあっちに行ってなさい」と言った父親を、お爺ちゃんが「見せてやれ、銀史郎にもいずれその時が来る」と言って止めた。そしてお爺ちゃんは私を後ろから強い力で抱きしめると「いいか銀史郎、すぐに殺してやらないと生まれ変わることができないんだ。生まれ変わった人間が家族だ。お前もよく心に留めて置け」と言った。  私は「やめろ、父ちゃん、やめろよ!」と大きな声を出し、父親の方へ行こうとしたのだが、お爺ちゃんの力は強く身動きが取れなかった。  父親がスコップを大きく振りかぶる。 「やめろ、やめろよ!」  私はぎゅっと目を閉じ、両方の耳を手で塞ぎながらずっと叫んでいた。それでも塞いだ耳の隙間から、私の叫ぶやめろよの声の壁をすり抜け、忘れることができない音を聞いてしまった。  スコップが振り下ろされる音と、キングの断末魔を。  それから一年後。由美姉ちゃんに赤ちゃんが生まれた。  あの時と同じだ。あの時のキングと同じ目をしてチロは後ろ向きに走っている。チロは、人間になりたいと思っているのか? チロは人間の生まれ変わりなのか?  私は携帯を取り出すと息子の忠志に電話をかけた。 「父さん、なんだい?」 「忠志、お前、結婚して何年だ?」 「どうしたの?」 「いいから何年になる」 「もう6年になるよ」 「赤ちゃんはどうなってる?」 「なんだよ」 「いいから、赤ちゃんはどうなってるんだ?」 「まだだよ」 「欲しいと思ってるのか」 「それは欲しいと思ってるよ。だから治療もしてるんだけどね」 「そうか、欲しいと思ってるんだな」 「あぁ」 「そうか・・・」 「どうしたの?」 「いや、なんでもない。それがわかればいいんだ」  こんなものは迷信だ。ただの偶然にすぎない。そんなことはわかっている。わかっているが・・・。 『いいか銀史郎、すぐに殺してやらないと生まれ変わることができないんだ。生まれ変わった人間が家族だ。お前もよく心に留めて置け』  心の奥底におりのように沈殿していたはずの爺さんの言葉が掻き乱されて蘇ってきた。  ちょっと待て、それじゃ忠志たちの時はどうだった? 忠志たちが生まれたときにそんなことがあったのか? 心に疑念が渦巻く。だが、確かめたくても両親はもうこの世にはいない。そうだ、由美姉ちゃんなら何か知っているかもしれない。私は慌てて由美姉ちゃんに電話をした。 「もしもし由美姉ちゃん?」 「まぁ銀ちゃん、どうしたの珍しい」 「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」 「いいわよ、何?」 「犬は後ろ向きに走るのか?」 「何?」 「犬は後ろ向きに走るのか?」 「走らないんじゃないの」 「その、もし走ったらすぐに殺せとか? 生まれ変わるって話は?」 「あっ、それ、お爺さんが言ってたことでしょう」 「由美姉ちゃんも知ってるのか?」 「知ってるわよ」  知っていた。由美姉ちゃんも知っていた。 「あれは人間の生まれ変わりで、殺してやるとまた人間に生まれ変われるって」 「そうそう。あんたよく覚えてたわね」 「あれって、本当なのか?」 「馬鹿ね、迷信に決まってるじゃない」  由美姉ちゃんの言葉にホッとする。もしやと思ってたが、これで安心することができる。 「あぁ、そうか、やっぱりそうだよな」 「どうしたの?」 「いや、ふと思い出したんだ。それで、俺の息子の忠志達の時はどうだったんだろう、と思ってね」 「お父さんが殺したわよ」 「えっ!」あまりにも驚いて電話を落としそうになった。 「あんた知らなかった?」 「あぁ」 「これであいつのところにも子供が産まれるぞって嬉しそうに言ってたから」 「本当に?」 「あんた実家に寄り付かなかったからねぇ」 「由美姉ちゃんは知らないかもしれないけど、うちにキングがいただろう。俺のキングを親父が殺したから」 「そう、そう、それ私の時でしょう。それであんたお父さんと口をきかなくなったんだってねぇ。あんたのこと気にしてたわよ。だから、あんたのためにって。お父さん、責任を果たしたって言ってたわよ」  姉の言葉を聞き体が震える。 「ただの迷信なんだろ?」 「決まってるじゃない。でもあの辺の家の人たちはみんな信じてたわよ」 「あの辺の家って?」 「実家の、うちの近所に神社があったでしょう。その氏子の人たちよ。だからお爺さんも信じてたわよ」 「親父も信じてたのか?」 「うぅん、どうかな、信じてたというよりも、慣わしだったからというか・・・」 「もしかして、今もその信仰って残ってるとか?」 「残ってるわけないじゃない。もう何十年も前の話よ」 「由美姉ちゃんのところの子どもはどうなってる?」 「どうなってるって?」 「孫は?」 「いるわよ。4人いるけど」 「その・・・、犬は、殺したのか?」 「馬鹿ね、殺すわけないじゃない」 「やっぱり、迷信なんだよな」 「当たり前よ。でもね実家のあのあたりの古い人は今でも信じてるわよ。赤ちゃんが産まれない家なんかがあるとね、ほらみろ、なんて言って」 「由美姉ちゃんは見たことあるのか?」 「何を?」 「犬が、後ろ向きに走るところ」 「そんなのないわよ、犬が後ろ向きに走るわけないじゃない。馬鹿らしい」 「・・・」 「ねぇ、銀ちゃん、たまには田舎のお父さんお母さんのお墓参りしなさいよ」 「ああ・・・」私は電話を切った。  これはただの迷信だ。姉だってそう言っている。  でも、自分は見てしまった。キングが後ろ向きに走ったのを。そして今チロが後ろ向きに走ったのを。もしかすると迷信じゃないかもしれない。・・・いやそんなはずはない。やっぱりそんなものは迷信だ。  もしかしたらキングを殺した時も、父は迷信だと思っていたんじゃないのか? 信じていたのは爺さんだけだったんじゃないのか? だからあの時、キングを殺そうとした時にあんな顔をしていたんじゃないのか? でも、キングを殺した。そしてその後も俺のために二匹の犬を殺した。迷信でもなんでも後ろに走る犬を見たら・・・、それをしないことで心がざわつくのなら・・・、しないわけにはいかなかったんじゃないのか? 爺さんの言った役目を果たすために。 『銀史郎にもいずれその時が来る』  今、私もそのことを突きつけられている。 これで息子夫婦に赤ちゃんが生まれるなら・・・。 『役目を果たせ』  爺さん、なんて言葉を俺に残してくれたんだ。だが、息子は子どもを欲しがっている。迷信でもなんでも息子たちのためにやってやれることがあるとしたら・・・。  父親が自分にしてくれたように。自分も役目を果たさなければいけないのではないか。だって、だって、チロは後ろ向きに走ったんだから。  コンクリートの塊が目に入る。 『お前の役目だ』爺さんの声が聞こえる。  くっそー・・・。  目の前を、チロが後ろ向きに走っていく。               終わり
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