1章 氷と雪の王子さま

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「待った。ドーナツの前に食物繊維とタンパク質だよ」  ダイニングテーブルにはメインのドーナツの他に、ツナとコーンのサラダ、バナナとレーズンのヨーグルトを用意してある。飲み物はホットミルク、きなこ入り。ウサギの耳をつけたパーカーにワイドデニムを履いた姉がさっそく手を合わせ、ドーナツに手を付けようとした所で待ったする。 「もー、みーくんってママよりママらしくなったよねぇ」  ぶつぶつ文句を言いつつもふーふーとマグカップに息を吹きかける。「冷たいのがいい」と口を尖らせるが、朝からお腹を冷やしてはいけない。  一口飲み終えると、キッチンに立つ俺を見て「まだぁ?」と首をかしげる。エプロンを外し、冷蔵庫横のフックに引っ掛ける。シナモンと砂糖を混ぜた小皿をもって、椅子に座った。  ダイニングテーブルは楕円型をしていて、一家の大黒柱たる姉は上座で俺は下座。向かい合うと「はい、お手てを合わせましょー」と俺を園児に見立てて先生らしく告げる。姉の社会人らしさをこうい時、かすかに感じる。必ず俺が座るまで食事を始めないことや、食前食後の挨拶は必ずやることとか。 「いただきます!」 「いただきます」  あとは、こんな時。 「みーくん、いつもありがと、ごめんね?」  姉はヨーグルトを、俺はサラダをむしゃむしゃ食べていた。とっさに喋れず、首をかしげる。 「みーくんに頼りっぱなしでさー」  またか、と思った。 「気にしないでよ。姉さんは働いてるんだから、家のことはいいんだよ。それに、片付いてないと落ち着かないのは俺の問題だから」  母の病が発覚後、姉は「家のことは任せて!」と胸を叩いていた。ピアノを弾き、歌声が美しくても家事の適正は壊滅的だった。特に料理を作らせてはいけない。食材も無駄になるし片付けの量も質も半端なかった。割る、焦がす、泣く、励ます、という流れ。  自己嫌悪に陥る姉を慰めるのも手間で、今の形に落ち着いた。時々こうして感謝と謝罪をされるが、姉も割り切っている。それでいい。 「さっすがみーくん、デキる男は言うことが違うよねー。そーいうとこ、パパに似てるんじゃない?」 「は?」  冗談じゃない、と口にしないかわりに眉を寄せた。それだけで姉には伝わり、悪戯が成功して喜んでいる。 「女の子に気を遣わせないスマートなところ?」 「意味が分からない」  あの男の話題は苦手だ。立ち上がって、お皿に盛ったドーナツに即席のシナモンシュガーを雨のようにまぶしていく。それを待ってましたと言わんばかりに姉の手が伸びてきた。 「んー、これこれ。お店で売ってるような型にはめた丸じゃなくって、ごとごとしてるのが可愛いいよね」 「うん」  無事に話題が逸れたとほっとするのも束の間。 「ねー、みーくんはパパが嫌い?」  だんまりを決めたかったが、姉が無言で待っている以上避けられそうもない。ドーナツをつかんで、椅子に深く腰掛けた。 「別に……ただ、なんか」 「ただ? なんか、なに?」  普段子供っぽいくせに、姉には独特なしたたかさがある。この、薄情するまでは食らいついて離さない感じは嫌だ。 「何考えてんのか分からなくて、なんか……」 「なんか?」 (怖い) 「疲れる」 「怖い?」  弾かれたように顔を上げる。心の声を口にしたかと訝しむが、「怖くないって」と姉が頬を緩めた。おもむろに立ち上がると、リビングのローテーブルからリモコンを取り、テレビを点けた。チャンネルを何度か変えると目的の番組を探し当てた。 <今回のゲストは何と何と、あの、賀茂生(がもう)グループ代表、賀茂生一雪(かずゆき)さんです! ホテル王です! ついでに遊園地も百貨店も牛耳っておられる大富豪! わっ、声援がすごい。女性の声が元気です! アイドルでしたか!?> <あはは、冗談がお上手だ。私は五十にもなるおじさんです。それに牛耳るだなんて、穏やかじゃないですねぇ。正確に申し上げますと、私は偉そうにふんぞり返っているだけの飾りです。優秀なのは我が社の社員です。経営のことはさっぱり!>    どっと笑いが起こったのが、よく聞こえる。 「怖い?」  テレビに指を差して、姉は「これが?」と重ねて笑う。俺は笑えない。あんな軽薄で気障で目立ちたがり屋な男が、父親? プレゼントだとアパートをぽんと建ててしまうし、何かと理由をつけては俺たちに貢ごうとする。小遣いだといって渡された額には戦慄したし、ちょっと外食しようと連れ出された先は国外、韓国だった。ふざけるなと散々怒ると次は物品攻撃。服、バッグ、靴に腕時計。どれも受け取らずに返した。だって困ってない。家事のお礼だと言って姉には小遣いを貰っているし、時々やなさんの弁当屋を手伝っているのでバイト代も入る。高価なものはコツコツ貯めて買うべきなんだ。  ただ、家賃だけは甘えている。悔しいが、だからこそ過剰な援助は遠慮したかった。なのに、姉はちゃっかりしている。多分、父をうまいこと使っているのだ。薄々気づいていたけど、一度確認した方がいいか。 「ねぇ。あの人にお金、貰ってないよね?」 「えー? あぁ、みーくんが嫌がるから札束は貰ってないよ? でも、デートの時にいつの間にかポケットとか? バッグとかに突っ込まれちゃってるのよね。忍者みたい。面白いよね」 「……姉さん」  自分の声がワントーン下がるのが分かった。姉は確信犯めいた笑みで向かいに座ると、「みーくんがつれないから、お姉ちゃんが満足させなきゃダメでしょー」と言う。ちょっと耳を疑うセリフだった。 「ほら、パパって陰ながら私たちのこと見守ってきたじゃない。本当は普通にパパらしいこと、したかったと思うよ? その鬱憤が溜まりに溜まって、雪崩起こしてる感じ? で、愛情の示し方がちょっとズレてて、ついでにすっごいお金持ちだから変に歪んでるの。ガス抜きさせなきゃ今度はアパートどころじゃないよ?」  現実味を欠いた例え話だが、アイツに掛かればどんな妄想も現実になる。お金というのは恐ろしい。  一番怖いのは、その欲に眩んで頼り切ってしまった時。だから、一定の距離を取りたい。 「たまにはデートに応じてあげればいいじゃない。パパ、みーくんを構いたくってしょうがないんだもん」 「……別に。しょっちゅうここに来て嫌でも会ってるんだから、わざわざ出掛けなくてもいいよ」  それに、あんな目立つ男と出掛けてもし、血縁者だと世に知られたら困る。この世の終わりだ。いや、逆に誰にも信用されないかも。事実、当事者の俺だってまだ、夢じゃないかと疑っている。  でも、やせ細った母の手を、あの男はほぼ毎日握りに来ていた。ホテルの一室のような豪華な個室をあてがい、人目をはばからず、泣いていた。「子供たちのことは任せてくれ」「安心していいよ」「ずっとずっと、愛してる」と最後の瞬間まで母に、言い聞かせていた。  父のことは、母がいよいよ入院するという頃に打ち明けられた。初めからいない存在だったので、かなり混乱した。姉にも父親の記憶はない。けれど薄々、母を支える影には気付いていたらしい。まだ幼かった自分には考えが及ばなかったが、今なら分かる。  母は姉を産んだ後、およ十年の歳月を経て俺を身ごもっている。パートナーがいないはずなのに、おかしなことだ。  つまり、両親はずっと愛し合っていた。あの二人は結婚も、戸籍上の繋がりがなくても、紛れもなく夫婦だった。   (なんで、結婚しなかったんだ)  実はそこに、一番腹を立てているのかもしれない。なのにまともに問い詰めることも出来ず、苛々は募る。  姉の解釈は、「農民が大奥に入るようなものでしょ? 無理だって」だ。あながち間違ってないのかもしれない。 「みーくんってママ似のクールビューティで、学年トップ、家事も完璧でおまけに運動神経も抜群。なのに、残念だよね。損してると思うなぁ。もっとこー、お馬鹿さんになったら?」  質問の意図を図りかねて眉間に皺を刻む。 「例えばー、俺がホテル王になる! とか?」 「姉さんっ!!」 「あははっ、パパ嬉しすぎて昇天しちゃうかも」 「いい加減に」 「だーかーら、それくらい笑い飛ばせなくちゃ、ね? パパともっと仲良くしなきゃ、天国でママ、泣いちゃうよ?」  うまく誤魔化された気がする。これ以上続けたくないので「ごちそうさま」と言い放ち、席を立つ。流しで食器を素早く洗っていると、にわかに視界が曇った。 「ねー、そんなにパパのこと嫌い? 悪い人じゃないと思うよ。確かに色々ぶっ飛んでるけど、ママを愛してたのは本当だと思うし」  姉はカウンターに身を乗り出して、こちらを覗き込んでいた。 「それにさ、ロマンチックじゃなぁい? 理由があって結婚出来ないにしても、ずっと愛し合ってさぁ。じゃなきゃみーくん、いないもん」  口籠ったものの、それすら悟られたくなくて「洗うからお皿持ってきて」と はぐらかした。姉は素直に従いながら手を合わせ、ぺこりとお辞儀をする。 「ごちそうさまでした」 「うん」  目が合わせづらかった。そんなところがまだガキだなと反省するが、行動には移せない。本日二度目の叫びを胸に刻む。 (早く大人になりたい) 「じゃー、みーくんの言う通りクローゼット片付けまぁす」 「テレビ消して」  背中を向けた姉にそう告げると、やれやれと肩を竦めてからやかましい音を消してくれた。姉が部屋に入ったのを確認して、「はぁ」とため息を零す。 (あの人の話になると、駄目だな)  ついむきになるし、普段なら流せることも引っかかる。  結局、いくら勉強が出来て炊事洗濯がこなせても、姉のがうんと大人だ。 (まぁ、恋愛ごとが絡むと大変だけど)    切実に祈ろう。姉に素敵な恋人ができますように、と。  ◆  シンク台の水滴を残さず拭いていると、扉を引く音が聞こえた。顔を上げると、姉が不自然なほどにこにこと微笑んでいた。 「……なに」  少し身構えて訊ねると、また先ほどの質問がきた。 「ねーぇ、みーくんはパパのこと、嫌いじゃないよね? 別に口も利きたくないとか、顔も見たくないとか、一緒の部屋にいて同じ息すら吸いたくないとか、この世から消えて欲しいとか思ってるわけじゃないよね?」 「……な、なんでそんな極端な聞き方するわけ?」  訝しんでいると、姉は晴れやかな表情のまま「だってー」と続ける。 「本当に心の底からみーくんがパパのこといらないんなら、もう関わらなでってハッキリ言ってやろうと思うの。だってお姉ちゃん、みーくんのが大切だもん。みーくんを守るのはこれからもお姉ちゃんなんだよ」  不覚にも、姉の愛情を感じて胸が震えた。「うふふっ」と肩を揺らすほど笑っているのは少し、違和感があったが、言葉に嘘はないはず。 「ねー、どうなの? パパのこといらない?」 「……別に、そこまで言ってないよ。ただ、どう接すればいいのかよく、分からなくて」 「嫌いじゃない?」 「……まぁ、うん」 「じゃー、好きなんだ」 「……好きでは、ない」 「でも嫌いじゃない」 「まー……、そうだね」  変なやりとりだ。しかし姉は探偵が犯人を言い当てるような、刑事が犯人を理詰めで追い詰めるような態度で腕を組み、いつの間にか持っていたスマホを顎へ押し当てる。 「つまり、パパのことはいらなくなくて、嫌いでもない。好きではないけど、限りなく好きに近い好きってことに、なーる」 『グスッ……うぅっ』 (は?)  今、どこからかすすり泣く声が、聞こえたような気がする。つい、辺りを見回してしまう。 「だってーパパ。良かったね? だから言ったでしょ、みーくんは思春期真っ只中の青少年なの。恥ずかしがり屋でかわいーでしょ?」 『うぅー、みゆきぃ、深雪ぃ~、パパ、パパはずっと、深雪に嫌われてるんじゃないかって不安で、たまらなかったんだよぉ』  スマホを耳に当てる姉を見て、ハッと息を詰める。 「ちょっ、姉さん! 電話してたの!?」  やられた! 通りで様子がおかしいと思った。 「喋る?」 「喋らない!」 「ね、照れてる」 『深雪ぃー』 「うざい!」    スマホを突き付けられたが背をのけぞらし、全力で拒否した。 「じゃ、今夜待ってるねー、ばいばい」    人差し指で軽やかにタップをすると、姉はドッキリ成功と言わんばかりに胸を反らす。腰に手を当て、人差し指を俺へ向けた。 「みーくん、今夜はすき焼き! 高級和牛がやってくるから!」 「はぁっ!?」  立て続けに驚かされた俺は呆気にとられ、一拍も二拍も遅れてから「いやいやいやっ」と頭を振る。 「ちょっと姉さん、あの人呼んだの!? ヤダよ、断ってよ何で!?」  およそ、学校では発さない音量と口調でもって姉をなじるが、効果は薄い。 「いーじゃん。ガス抜きだって。ご馳走になるくらいしなきゃ、パパだってストレス溜まるわよ」 (こっちのストレスはどうなる!?)  そのご馳走とやらを作るのは結局俺で、精神的にも肉体的にも疲れるのは一〇〇%こちらである。 「あぁっ、くっそ……。最悪だ」  こちらの意向を聞かず、勝手に決めて勝手に解釈する。自由で、奔放で、やりたい放題。  紛れもなく姉は、父の子供だ。  
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