1章 氷と雪の王子さま

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 ベランダの手摺に二人分の布団を干して、食い入るように空を見上げた。雲一つない晴天。どこもかしこも同じ色だ。すーっと鼻から深く息を吸う。  町を一望できる位置にスノーカメリアは建っている。息苦しいほど密集する町並みはさながら模型のようだ。通っている高等学校も見えるし、図書館や行きつけの大型スーパー、駅に隣接する書店などがどこにあるか把握できる。  かつて暮らしてしていた集合住宅では拝めない光景だ。一階で、日当たりもいまいちだった。それでも時々懐かしく思う。  いつか見晴らしの良い高台へ引っ越したいと望んではいたが、ぽっとでの父親によって叶えられ、今に至っている。魔法にかけられた気分だ。  あの男には常識がない。  言いたいことは多分にあるが、それを口にしたところで自分の幼さを自覚するだけだった。 (早く大人になりたい)  厄介なのは、ここでの生活が快適で気に入っているということ。ジョギングコースを始め、閑静で清潔。ゴミが道に捨てられていることもなければ、夜更けに遊び始める若者もいない。何より緑地公園の広さと川の桜が見事だ。例えばそう、SNSで自慢したいほどである。しないけど。  とっておきの場所は教えたいけど教えたくないものだ。   (さてさて、ボーっとしてられないな)  見惚れるのもそこそこにして、洗濯物にとりかかる。姉の制服ともいえるアニマル柄のエプロンをずらりと干している時だった。階下から車の音が聞こえ、それが驚くほど近かったので思わず覗いた。  アパートの駐車場は玄関の正面にあり、現在我が家を含めて三台しか停まっていない。まどかさんのクリーム色の軽自動車はもうないので、早速出掛けたようだ。最奥にあるのはワゴンで、目にも鮮やかな若草色。車体には「やなさんのキッチン」とある。脱サラしてお弁当屋を始めたおじさんだ。その名も柳瀬さん。下の名前は忘れてしまった。  そして、あとはピンクと白のツートーンカラーが姉の愛車。その隣に今、見覚えのない白のセダンがゆっくりと駐車している。 (あー、例の、新しい人かな)  今日だったのか、と考えてハッとなる。気になるからってじろじろ見るのは失礼だ。  洗濯かごを手に、窓を開けようとした時「わぁっ~!」という歓声が聞こえてきた。 (ん?) 「おーちゃん、ここぉ? 綺麗で可愛いじゃん! ますますいい! 気に入った! 夢みたいっ」 (この声、どこかで聞いたような)  気のせいだろうか。  学校か、近所のスーパー? 公園。いや……?  妙な既視感を覚えて思考を巡らす。なおかつ、死角になるよう脇に移動し、そぉっと下を窺った。ちょうど運転席から男が降りてきた。上から下まで黒ずくめの長身、すらりとした体躯にぴんと張った背筋。もう一人は先んじて外へ飛び出し、ひっくり返る勢いで頭上を、スノーカメリアを見上げる少年だった。 「声を抑えなさい、近所迷惑だろう。ほら、自分の荷物は運ぶんだ」 「て言ってもー、リュックと紙袋一つだし。布団は重いから無理ぃ。あ、冷蔵庫とか買いに行くんでしょ? 洗濯機とテレビもだよね。家具は? ダブルベッドがいいな!」 「まったく……、落ち着きなさい」 「うん! あっ、お腹空いた! さっき買ったパン食べよっ」  落ち着きのない少年は癖のある髪をふわふわ風になびかせ、駐車場を右へ左へ駆ける。小柄でいかにも華奢な体格だが、さすがに小学生には見えない。テンションの高さと口調から幼く見えるだけ。中学生ないしは高校生。大して俺と変わらない……、かも。 (あれ?)  同じことを少し前、一昨日でもなく昨日でもなくついさっき。そうだ、ジョギングの途中……? 「あっ、人だ! おはよーございまぁす」  !!  瞬間、橋ですれ違ったゲイのカップルだと思い至る。そんなまさかと疑いたくなるが、じろじろと見返すわけにもいかず、深々と腰を折った。寸前、手摺りに頭をぶつけそうになって一歩後退する。改めて一礼。 「おはようございます」  隠れているつもりだったが、少年が縦横無尽に駆けるので死角は死角ではなくなっていた。恥ずかしい。しかしここは重要な場面。高低差がありすぎて挨拶しづらいが、今後の付き合いを考えると無視などありえない。 「今日越してきました! 宜しくお願いしまぁす」 「こら、こんな下から失礼だろう」 「えー? 挨拶しただけじゃん……て? さっきも同じこと言ったような言われたような?」  長身の男は少年の頭を強引に押さえつけ、自らも丁寧に腰を曲げる。 「あとで改めてご挨拶に伺います」 「い、いえ、ご丁寧にどうも」  語弊があるかもしれないが、俺にとっては世にも珍しい同性カップル。特別な好奇心もなければ嫌悪感もない。そもそも同性愛について考えたことすらないのだ。しかしこれは繊細な問題で、自分の態度に誤解が生じてはまずい。  内心の焦りを隠してぺこぺこ頭を下げると早々に室内へ避難した。その際、あの少年はお臍が見えるほど手をぶんぶん振って「またね!」と叫んでいた。一体いくつだ。 「みーくん、どーしたの?」 「え? あ……、ううん」  洗濯かごを抱えて立ち止まっていると、姉が視界に入り込んできた。先程の少年同様、手をひらひらさせて。 (姉さんと背丈、一緒くらいかな)  どうでもいいことを考えていると、「ねー、見て? いつもより目ぇ、おっきく見えない?」と奇妙な質問が飛んできた。 「は?」 「だから、目!」  俺の前で背伸びをする姉は、くるるんとカールした睫毛を忙しなく上下へ動かし、アイラインで縁どった目をどうだどうだと言わんばかりに見せてきた。注視していると、確かにいつもより二重瞼がくっきりしている、かも。  と思う一方、今しがた別れた少年の顔が脳裏によぎる。 (あの子のが大きいだろうな)  車道を挟んだ時よりも多少、顔の造詣は見えた。花開くような笑顔と好奇心に満ち溢れた瞳はまるで……そう、虹太君みたいだった。   (美形のカップルってなんか、迫力あるな)  姉の顔を直視しながら思考がずれていくと、「みーくん!」と呼び戻された。速やかに「うん、可愛い」と褒めておく。処世術である。 「でしょー! 次の合コンはこれで行く」 「がんばって」  姉のメイクは平日より休日に発揮される。普段塗りたくれない分、練習を兼ねて気合が入るのだ。ちなみに本番はその合コンとやら。これもひとえに恋人を獲得し、幸せな結婚を果たすため。  俺がシャワーを浴び、布団や洗濯を干している間にメイクはバッチリ終わっているが、はっきり言ってそれだけ。 「着替えてからじゃないとご飯にしないよ」 「もー、分かってるって」  引きずりかねない長さの裾をひるがえし、スキップしながら部屋へ消えて行った。と思いきや、半端に引いた扉から顔だけ出してきた。 「みーくん彼女出来た?」  それは、本日二度目の質問だった。しかし驚かない。慣れているからだ。  まどかさんは単なる挨拶で、からかおうという軽い気持ちだと思う。姉は違う。馬鹿馬鹿しいことに、まだ高校も卒業していない俺に先を越されやしないかと危ぶんでいる。婚期を焦るあまりおかしくなったとしか思えない。二十代半ばを差し掛かったことと、母の死。その二つをキッカケにして暴走は始まった。姉の中ではどうも、交際イコール結婚という不動の公式が出来上がっている。だから失恋する度にこの世の終わりだ生涯孤独だと大袈裟に嘆く。  ハッキリ言って面倒くさいし、恋愛の話は苦手だ。   「いないって。さぁ、早くしないとドーナツ食べちゃうよ」      
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