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序章 クリームソーダに恋をみる
何を考えているのか分からない、とよく言われる。
でもそれって普通じゃない?
俺だって他人の頭の中なんて読めないよ。当然だと思う。自分のことだってちゃんと分かってないんだ。これからどうするつもりだとか、どうしたいんだと聞かれても「分かんない」。でも誰にも叱られたくないから、相手がどうしたいかを考える。それが結果として自分を楽にさせる方法だった。
俺はお母さんと一緒なんだ。
服を脱いで、股を開いて望むような声で啼く。腰の振り方は知らないうちに身についていて、相手が極めるタイミングだって読めるようになった。けど、泣き顔は下手だと叱られた。目薬だけでは誤魔化せなくて、そういう時は痛くしてもらった。
お母さんの子供なんだから、しょうがない。
お母さんだって俺の為にしてきたんだから、しょうがない。
でもね、覚えている限りお母さんは決して自分を惨めだとは思ってなくて、お金の為ならと割り切っていたように思う。
だから俺もそれに倣った。
こんな生き方は間違っていて、常識から逸脱していることは一応、自覚していた。
「心から愛する人が出来た時、君はどうするつもりだ。もっと先を想像しなさい」
運悪く、通っている高校とは別の先生に補導された。でも初対面ではなかった。
先生の名前は個性的だったから覚えている。氷室汪治。あだ名は氷の王子さま。去年、つまり高一の時の担任で、その後他校へ異動になっていた。特別な思い出があるわけでもないし、名前以外の印象はない。女子に人気があるのも覚えている。静かで、穏やかな大人だった。
一度掴まったのをきっかけに度々補導された。学校にも報告され、お世話になっている家にまで直談判に来た時はさすがに困った。大した問題にもされず、うやむやにされるのは分かっていたから。
俺を渋々引き取った親戚の家は、大きな病院を経営していて、大抵の問題は手元で握りつぶせる立場にあった。正義を行った先生は糾弾され、事態は何一つ解決されなかった。だから俺に関わらない方がいいと言ったのに。
「こんなのは間違ってる。瓶詰みたいな生活をして、君はいつか壊れる」
瓶詰、という表現は印象的だった。
お節介な氷の王子さまは諦めず、俺を救い上げようとした。
本を読んでいる時が一番幸せだと言う先生が、周囲の圧力に屈せず俺を気に掛けるのはなぜだろう。安直に考えて、「先生って俺に惚れてる?」と訊ねたことがある。わりと真面目に、ドキドキしながらだよ?
なのに、一切の躊躇なく「あり得ません」と否定された。気持ちが良いくらいキッパリと。
「惚れている相手なら他にいます。二度と誤解しないで下さい」
しかも強調され、告白もしていないのに失恋気分を味わった。ちょっと悔しい。自慢じゃないが、俺を袖にする奴なんてそういないんだ。
しかして、先生の説得があっても「小遣い稼ぎ」は続く。
俺が尤も怖れているのは従姉の雛だった。蝶よ花よと育てられた根っからのお嬢様で、俺よりは劣るけどそこそこの美人。けれど性根は腐っている。彼女の逆鱗にふれると、必ず苛烈な報復を受けた。そもそもの始まりは、雛の「生活費は自分で稼ぎなさい」で、「あの女と同じ稼ぎ方すればいいじゃない」だった。雛の言葉は絶対で、逆らえない。出来ればもう三人以上の相手はさせられたくないし、眠らせてもらえないのも、食事を与えられないのも嫌だった。
だから、雛には逆らわないと決めている。
先生はただ、定期的に会って話しをしようと提案してきた。しかもご飯を奢ってくれる。断る理由はなかった。
大好物はクリームソーダ。
お母さんの指輪を思い出す。マスカットのゼリーを光りで固めたような色なのに、味はメロン。上に浮かんでいるのはバニラのアイスで、一房のさくらんぼは食べるのが勿体なかった。グラスの底に沈ませるのが好きで、気泡が勢いよく上がって消えていく様も爽快でいい。甘くて冷たくて綺麗、それでいて喉を強烈に刺激する。先生みたい。見た目は涼しいのに、俺の知らない激情を身体のうちに鎮めている。だって、俺みたいな奴放っておけばいいのにお節介にも程があるよ。俺に惚れてるわけじゃないなら、別の理由があるんだ。先生なりに譲れない何かがあって、そこにたまたま俺が引っかかっているだけ。
一方的な失恋に懲りず、試しに露骨な誘い方をしたけど結果はにべもない。
先生が惚れている相手って誰なんだろう。
先生はいつも、真っ黒な珈琲を飲んでいた。会話らしい会話もないまま別れることもあったけれど、必ず次の約束をしていった。
会えば、まるで普通の……何だろう。友人とは言えないし、兄弟みたいな関係でもない。教師と生徒ではあるけれど、現在は学校が別だしそれも違う。かといって甘い関係にもなり得なかった。
ひょっとして、中途半端に関わってしまったせいで切り離すタイミングを失ったのだろうか。先生はお人よしだから。なら、俺から「もう会うの止めない?」と言うべきかもしれない。次に会った時には言おう、言わなきゃ、言うぞ。
そう試みる度に、次でもいいかなと思い直した。
筋肉だるまみたいな男に犯された後。玩具を相手に自慰行為をネットに晒した後。雛にあてがわれた男とホテルへ行った帰り。
決まって、クリームソーダが飲みたくなった。喉をきゅっっと締めて、綺麗なものを内側に満たしたかった。お腹をキンキンに冷やしたい。
あぁ、先生に会いたいな。
いつもは痛くないと泣けないのに、先生を思い出すと涙が零れた。
先生はよく「恋」の話をする。
抽象的な言葉を尽くして、いかに素晴らしいものであるかを俺に訴えた。そして必ず後悔するんだと脅してくる。
恋なんて知らない。
特別も分からない。
セックスが尊い行為なわけがない。
誰とだってやれるし、誰とやっても同じ。
最高だと褒められるし、また抱きたくなると必ず言われる。
誰だって俺に夢中になるんだ。
先生もきっとそう言ってくれる。
言ってくれるよね?
抱いて、くれるよね?
俺を、どんな風に抱いてくれる?
心躍るような想像はしかし、黒く塗りつぶされる。足元が崩れて奈落に堕ちていく。汚物のような身体がこの上なく恥ずかしくて、先生の言う「後悔」を初めて実感した。
そして「恋」という未知の輪郭をおぼろげに掴んだ。
二度としないと決めていたのに、雛に逆らった。
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