12人が本棚に入れています
本棚に追加
病室にて
腰に負った傷は生命を左右するようなものではなかった。しかし、神経が集中する部分でもあるため、それを傷つけていた場合は後遺症が残る可能性もあるとのことだった。リハビリが重要になりそうである。
沙織を刺した初老の男も、殺すつもりなどなく、あくまで驚かせるためだったと証言しているそうだ。その言葉を裏付けるように、使用した凶器は殺傷能力の低い小さな果物ナイフだった。
病室で警察の方からの取り調べを受けた住倉沙織は、その話を聞かされて何とも言えない気分になった。
驚かせるために人を傷つける。いくら殺傷能力の低いナイフだったとはいえ、刺された場所が悪かったら命を落としていたかもしれないし、もしかしたら一生車椅子生活になっていたかもしれない。
そんなことを考えもせず、驚かせるためにと簡単に行動に移してしまう。そんなあの男の人の考えは沙織には到底理解できそうになかった。
結局、彼は誰でも良かったので傷つけたかったのである。そして今回はそれに運悪く自分が選ばれてしまった。それだけのことだった。
平日の午後。怪我をしていなかったら、間違いなく今日も保育園に出勤して子どもたちの相手をしていたと思う。
もうすぐ『うんどうかい』である。楽しみにしている園児たちもたくさんいる。
練習していたダンスやかけっこはどうだろう。みんな上手にできるだろうか。自分はたぶん参加できそうもない。
情けないなぁ。
そこまで考えてみて、沙織は自分がいつの間にか泣いていることに気がついた。
刺された部分が痛い。身体を少し動かそうとするだけで鋭い痛みが腰の辺りを突き抜ける。
だけど人前では余計な心配をかけないように気丈にふるまっていたし、ましてや涙なんて絶対に見せないようにしていた。
しかし、入院生活というのは何かやらなければならないことがあるわけでもなく、どうしても時間を持て余してしまう。だから余計なことばかりを考えてしまう。
学生時代のバイトの後輩である立花咲ちゃんは、大学を卒業しても目標が見つけられずに悩んでいた。そんな彼女に沙織ができたことと言えば、話を聞いてあげることと一緒に悩んであげることくらいだった。
正しい答えなんてものはない。どのような仕事に就けば定年まで安泰かなんて誰にも分からない。だから自分が選んだものを一所懸命に頑張るしかない。
彼女に伝えた言葉は、高校時代の恩師から教わったことの受け売りだった。
分かっている。そんなことは分かっているのだ。だけど、こうして何もできないでいると自然と気持ちに焦りが出る。
あのときの咲ちゃんの気持ちを自分自身で再認識してしまう。
本当に元のように復帰できるのだろうか。何事もなかったように仕事を続けることができるのだろうか。
保育士の仕事は、仕事柄、人と会うのが当たり前の仕事である。毎年新しく園児たちは入ってくるし、新しい保護者の方々ともコミュニティを築いていかなければならない。
だけど、今はほんのちょっとそれが億劫になっている。なんでだろう。この気持ちは。恐怖。そう、恐怖だった。
目を閉じれば、まだ私を刺したあの男の人の顔が浮かんでくる。優越感に満ちた顔。人を傷つけながらも薄らと笑みを浮かべることのできる人の顔。
怖い。とても怖い。
どうしよう。どうすればこの気持ちを抑えることができるのだろう。
ああ、腰が痛いなぁ。
そんな想いを巡らせていたところ、突然ガタッという音がして、沙織は驚いて音のした方に目をやった。
身体はあまり動かしたくない。だからそのままの姿勢で音のした方をじっと見つめる。
もぞもぞ動いて出てきたのは、なんと小さな男の子だった。
いくつだろう。男の子はかなり幼く見えた。自分の保育園の基準でいうと年中、いや年少さんくらいかもしれない。
「ないてるの?」
目が合って沙織の顔を見た男の子は、トコトコと沙織のすぐ横まで近づいてきた。
思わぬ人物から指摘されてしまった沙織は慌てて袖口で目元を拭った。
「ううん、傷が痛いだけだよ」
「ふーん」
男の子はそれだけ聞いて沙織に興味を失ったらしく、今度は窓際に寄って外を眺め始めた。
沙織は小さい子特有の予想もつかない態度が可笑しくて、少しだけ笑みを浮かべた。
「あなたのお名前は?」
「ぼく? ぼくはりょうま」
「りょうまくんっていうんだ。りょうまくんのお父さんとお母さんは?」
「おかあさんはいない。おとうさんはどっかにいる」
「どっかにって」
男の子はパジャマ姿だった。彼も私と同じように入院しているのだろうか。もしかして迷子なんだろうか。だとしたら看護師さんを呼ぶ必要があるかもしれない。
その時、ノックの音がしてちょうど看護師さんが病室に入って来た。
看護師さんはすぐ男の子に気がついた。
「あ、涼真くん、だめじゃない。お父さん探していたよ」
「いま、かくれんぼしているの」
「病院でかくれんぼしちゃダメなんだよ。私がお父さんのところに連れて行ってあげるね」
「いや」
「いやって言われてもね」
「いや」
「仕方ないなぁ」
看護師さんは苦笑いをしながら応援を呼んだ。
二人のやりとりを見ていた沙織は何だか意味もなく癒されてしまっていた。
「看護師さんも大変ですね」
「小さい子はね。仕方ないですよね」
すぐに他の看護師さんがお父さんらしき人を連れて現れた。
お父さんらしき人は結構な年配の方で、知らずに出会っていたらお爺さんかと思ってしまうほどの年齢の人だった。
「息子がお邪魔をしてすみませんでした」
「いえ、とんでもない。なんだか癒されちゃいました」
こうして住倉沙織は黒鉄雄山と涼真の親子と知り合った。
最初のコメントを投稿しよう!