12人が本棚に入れています
本棚に追加
「そんな大音量で音楽を流していたわけじゃないんでしょう?」
「ええ。ただ『うんどうかい』の行事が近かったのもあって、普段より音楽はよく流していました。近隣の人たちには毎年この時期になると挨拶まわりをして理解してはもらっていたんですが」
「大変だねぇ」
「分かるには分かるんです。興味のない音楽とかがずっと近所で流れていたら気に入らないって思ってしまうのは」
「それは寛容さの問題だな」
「そうかも知れません」
沙織は頷いた。
人それぞれ考え方は違う。どんな仕事をやっていたとしても必ず考えの相違でぶつかってしまう人というのはいるものだ。
だけど、それがこちらの仕事である以上は、こちらも簡単に引くわけにはいかない。何度も説明して頭を下げて理解してもらうしかないのだ。
沙織の話を聞いていた雄山は言った。
「ネェちゃんは可愛くて頭も良いけれど、馬鹿だな」
「えっ」
雄山の口から飛び出した言葉に沙織は驚いてしまった。
悪意があって言ったわけではないことぐらいはすぐにわかる。だけど意味がわからなかった。
「正義っていうのは綺麗な言葉だが、時には戦争の引き金にもなってしまう危険なものだ。だが、正義を持っていない奴はどうなると思う? ただ強い者に、声の大きい者に、大切な権利をどんどん奪われちまう。
同じ国内にいる以上、立場は対等なんだ。話し合いで決着がつくのならそれほど楽なことはない。だけど世の中そう上手くもいかねえ。だったらどうする? 戦うしかねえじゃねえか」
「戦うって」
沙織には到底できそうもない考えだった。
自信満々に語る雄山はそんな沙織の考えなどお見通しといった感じである。
「別にソイツと拳で殴り合えって言っているわけじゃねえんだ。自分たちの権利を、正義を、役所や町の人たちに理解してもらえばいいんだ」
「どうすればいいんですか?」
「権利どうしのぶつかり合いに終わりはねえ。裁判や弁護士なんて話になったらお金がいくらかかるか分からねえ。だから条例を作ってもらうように自治体に訴えかけるんだ。署名とかを集めてな」
「そんなこと、できるのでしょうか」
「できるできないの話じゃねえんだ。やってみてどうなるかの話だ。
それに今回はネェちゃんが犠牲になって怪我をしちまうことになったかもしれねえが、次が起きることだって十分にあるじゃないか。そうしたら今度は保護者か子どもが被害者になっちまうかも知れねえ。
周辺に住んでいる理解ある人も時が経てばどんどん年をとって入れ替わっていくだろう。じゃあ、不寛容な連中ばかりが増えていったらどうするんだ? みんなが納得してくれるまで頭を下げ続けるのか? そんなことはできないだろう?
そのためにも行動は起こさなきゃダメだ。今回傷ついたネェちゃんが率先して動けば協力してくれる人は必ず現れるさ」
「そうでしょうか?」
「そうさ。それとも何かい? あんたの保育園は後ろめたいことでもしているのかい?」
「とんでもない!」
それだけははっきりと否定できた。
雄山はにっこりと笑った。
「じゃあ考えてみることだ。俺も一応この辺の近所に住んでいる者だ。署名くらいならいくらでも協力する」
「ありがとうございます」
沙織は雄山に頭を下げようとしたが腰の痛みが出て「いたたッ」と小さな叫びを上げてしまった。
「大丈夫かい?」と心配してくれる雄山はとても頼もしく思えた。
「世の中の奴らは大半がサイレントマジョリティ(物言わぬ権利者)だ。だけど、それぞれがみんな独自の正義を持ってるのは確かだ。
もし自分のやっていることが間違っていないと思うんだったら、その正義をサイレントマジョリティたちに問いかけてやればいい。ネェちゃんの価値観が世の中の常識から外れていないんだったら、支持されるかも知れない。
もちろん考えが正しくても思い通りに事が運ばないこともある。だけどめげちゃダメだ。
ネェちゃんの職場のことであり、子どもたちの安全と安心のためなんだろう? 身を粉にして動くだけの価値はあるじゃねぇか」
雄山の言葉を聞いていて、沙織は瞳が潤むのを止められなくなっていた。
沙織の異変に気づいたのか、一人で遊んでいた涼真くんが沙織の前に来て尋ねてきた。
「おねーさん、またイタイの?」
「ううん、違うの。違うんだよ」
住倉沙織は慌てて袖口で目元を拭おうとしたけれど、次から次へと溢れ出してくる涙はなかなか止められなかった。
最初のコメントを投稿しよう!