署名活動

1/1
前へ
/9ページ
次へ

署名活動

 それから一年が経とうとしていた。  黒鉄雄山のアイデアを森下園長に話してみたところ、森下園長も同じようなことを考えていたらしく、『うんどうかい』の参加者たちを皮切りに署名活動が始まった。  人の意見を集めるというのは怖い。もし日中の子どもたちの声が迷惑だと思っている人が大多数だった場合は、保育園として様々な防音対策を講じなければならず、その予算も確保できないようならば、保育園の運営自体を考え直さなければならない可能性だってあった。  だけど、そのような懸念は杞憂に終わりつつあった。  古くから住んでいる人たちはほぼ保育園の味方になってくれた。新しく住み始めた人たちも保育園で起きた殺傷事件を知っているからか、ほとんどが同意してくれたのだった。  もちろん中には反対意見もあった。何も法律や条例として定めるほどのことではないという意見もあったし、あの沙織を刺した初老の男と同じように保育園から発せられる音を騒音だと感じている人もいた。  だけど、直接そのような考えの人と知り合う機会が持てたことも署名活動を通しての大きな収穫だった。  そして役所に集めた署名を提出した後のよく晴れたある日、住倉沙織は黒鉄組の門を叩いていた。 「おお、活躍は聞いてるぞ」  ヤクザなんだから関わらない方がいいと周りの保育士仲間からは言われたが、沙織は黒鉄雄山にお礼を言わずにはいられなかった。 「ご教授ありがとうございました」 「怪我はもう大丈夫みたいだな」 「ええ、時々鈍痛があったりしますけど大丈夫です」 「そうかそうか」  うんうんと相槌を打つ雄山は、ヤクザの組長というよりも優しさが顔に滲み出ている好々爺の雰囲気さえあった。 「今日は涼真くんは?」 「ああ、アイツは寝てるよ」 「どこか悪いんですか」  沙織は尋ねながら余計なことを聞いてしまったと内心反省した。  案の定、雄山は一瞬表情を曇らせたが、すぐに元の調子に戻って立ち上がった。 「せっかくだし、顔見せてやってくれるかい?」 「はい。ご迷惑でなければ」  黒鉄涼真の病がどんなものなのか、沙織は想像もしていなかった。  印象に残っている涼真くんの姿は好奇心旺盛な行動力と年相応の可愛らしさである。だけど、これから目にすることになるのは沙織の知らない涼真くんの姿のようだ。いったい何の病なのだろう。  六畳の和室の布団で涼真くんは静かに眠っていた。 「体調が悪くなると、ずっとこんな感じなんだ」 「保育園とかには?」 「一応近所の幼稚園に入園手続きはとってあったんだが、結局ほとんど行けずじまいでな。もう受け入れてはくれねえと思う」 「そんな……」  あの病院で見た元気な涼真くんとはとても思えなかった。  四、五歳といえば遊びたい盛りだと思う。初めての友達ができて一緒に園庭を走り回って遊んでいてもおかしくないはずである。だけど、それができない。  親である雄山の苦悩は計り知れなかった。 「元々病弱だった母親がコイツを産んですぐになくなっちまってな。女手はないが寂しい思いはさせねえように気を使って育ててきたつもりだが、世の中うまくいかねえもんさ」  自嘲気味に笑う雄山に対して、沙織は何と言ったらいいのか分からなかった。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加