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抗う者たち
それは一人の男の昔話。
東京に新しいシンボルとなる東京タワーができ、来るべき東京オリンピックに向かって右肩上がりにどんどん日本経済が成長していた頃の小さな物語。
黒鉄雄山の父は小さな町工場を営んでいた。彼は入ってきた仕事を一切断ることなく、朝早くから夜遅くまで働きづめの毎日を送っていた。
父一人だけが苦労しているのならそれで良かったのかもしれない。だが、結局は家族全員がその影響を受けることになった。
雄山は高校を卒業した後、父に言われるがままに家業を手伝うようになった。しかし、なぜかいくら働いてもまともな給料を貰えなかった。
工場には丁稚という使用人が何人かいて一緒に働いていた。そして彼らの方がまだマシな待遇を受けていた。
貰った給料で好きな物を買って食べている丁稚の姿を見て、それが羨ましくて仕方のない雄山。高校の友達もみんな就職してお金を稼ぐようになっていく中、雄山だけがお金を持っておらず、いつも悔しい思いをしていた。
雄山は何度も父に給料の交渉を行った。だけど返ってきた言葉は「まともに食わせてもらっているだけ有難いと思え」だった。
ある日のこと、とうとう雄山はキレた。
激怒した父は「出ていけ」と容赦のない言葉を息子に向かって言い放った。雄山も負けずに「じゃあ今まで働いた分の給料をくれよ」と言い出して言い争いになったあげく、三千円(今の金銭価値でいう一万六千円くらい)というわずかなお金を勝ち取った。
運転免許証と傘、そして三千円のお金を受け取り、家を出た雄山だったが、もちろん行く当てなんてなかった。
ところが、なるべく実家から離れた場所に行きたいと思って乗った夜行列車の中で、雄山は衣料品会社の支店長と知り合う。
「兄ちゃん、何処まで行くんだ」
「とりあえず関西に行こうかと思っています。そこで仕事を見つけて父親を見返してやろうと思って」
「どこかに当てはあるのかい」
「いいえ、まったく」
しかし、手持ちが三千円では新しい生活を整えるための資金として少なすぎた。
見かねた支店長は「これも何かの縁だ」と言って雄山を自分の会社に連れて行った。そして自分の甥っ子だと偽って住み込みの社員として仕事を斡旋してくれた。
ただ、さすがに支店長と言えど、身元の怪しい人間を誰にも内緒で雇うわけにもいかなかった。だから、その会社の会長にだけは事情の説明を求められた。
雄山から一通りの事情を聞いた会長は「お前を雇ってやってもいい。だけど今すぐここで実家に電話しろ」と言って実家への連絡を強要した。他に行く当てのない雄山は素直に従うしかなかった。
こうして雄山は衣料品会社の社員として働くことになったのだが、支店長の甥っ子という待遇は絶大な効力を発揮した。ほとんど次期支店長扱いである。
支店長の鞄持ちとして行動を共にして買い付けを行い、工場に指示を出して、自分たちはレストランで美味い食事を堪能する。
夜遅くまで働かされて、ろくな給料も貰えなかった実家での生活とは、天と地ほどの差があった。
雄山は支店長や会長の期待に応えるべく猛烈に頑張った。衣料品の知識などなく、他の社員さんたちと比べて自分が劣っていることは十分に承知していたので、何を言われても謙虚に受け止めることができた。
ところが、雄山が働き始めて三年が経とうとしていたある日、会社に一本の電話がかかってきた。
それは父が倒れたという母からの連絡だった。
会長からは「すぐに実家へ帰れ」という命令が下った。しかし、雄山としては勘当されて出てきた身だと思っていたので、その命令を素直に受け入れるわけにはいかなかった。
三十分に渡る言い争いになった末に会長から言い渡されたのは「クビ」だった。
両親を大切にできないような奴はお客様も大切にできない。そのような判断だった。
こうして雄山は肩を落として実家に帰省することになった。そこで待ち受けていたのは以前となんら変わりのない働きづめの父の姿だった。
父が倒れたというのは母の嘘だった。
雄山は泣いた。母は父の無事を知り安心しての涙だと思ったようだが、本心としては、嘘に翻弄されてつまらない意地を張り、仕事をクビになってしまった馬鹿な自分に対しての涙だった。
それからも雄山と父は何度も衝突を繰り返した。お互い頑固だったが、卑怯なことや人の道に外れるようなことだけは決して行わなかった。
そして働きづめだった父が心筋梗塞であっさりと亡くなってしまった後、雄山は父の遺産をすべて相続した。だが、その時にはあの活気に満ちていた町工場もすっかりその役割を終えようとしていた。
雄山にできたのは、できる限り取引先に迷惑をかけることなく、町工場を閉めることだった。
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