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降りかかった悪意
何が起こったのか、その瞬間、自分でもよく分からなかった。
それは突然降りかかってきた悪意だった。
『うんどうかい』を間近に控えた、夕方の保育園に一人の訪問者がやって来た。
最初に気づいて対応に出たのは、たまたま入出場口の近くで園児の相手をしていた住倉沙織だった。
「責任者の方はいるかい」
「ええ、何のご用ですか?」
「ちょっと話したいことがあるんだが」
沙織は顔には出さなかったものの少し警戒した。もしかしたら彼はここ数ヶ月に渡って保育園の騒音問題を糾弾するチラシを投げ入れている人物かもしれない。直感的にそう思った。
入出場口に鍵はかかっていなかった。一応ゲートは閉まっていたが、それは柵の上から手を伸ばせば簡単に解錠できるような簡易的なものだった。
もちろん完全に閉めようとするなら南京錠をかけることもできる。しかし、園児たちのお迎えの時間を向かえていたのもあったし、揉めているところを保護者の方々に見られたくないというのもあった。それに、一つしかない入出場口で園児と保護者が要注意人物と鉢合わせしてしまうのだけは保育園として絶対に避けなければならなかった。
いずれにしろ、その初老の男は他の保護者の方々と同じように自分で解錠して、園庭に入って来ていた。
このまま無下に帰ってください、と言うわけにもいかず、沙織は一瞬の判断で応接室に案内するしかないと決めた。
初老の男はイライラしていた。このとき沙織は男の機嫌を損ねるようなことは何もしていない。むしろ彼女特有の誰にでも好印象を与えるような冷静で落ち着きのある対応をしていた。
しかし、この時ばかりは、その対応が逆に男の機嫌を損ねる結果になってしまったようだった。
男はむしろ保育士たちが萎縮し怯える姿を無意識のうちに求めていた。正義はこちらにあり、保育園の関係者たちは自分に配慮する側の立場だと、勝手に思い込んでいたのである。
「こちらへどうぞ」
沙織は男を応接室に案内しようと、男に背を向けた。一番に心配しなければいけないのは、すぐ傍にいる園児の三沢亜紀ちゃんだった。
二人のやりとりを黙って見ていた亜紀ちゃんは、沙織が手を伸ばすとにっこり笑ってその手をつかんだ。
そして園舎に向かって歩き出そうとしたとき、腰の辺りに鋭い痛みが走った。
沙織たちのやりとりを少し離れた場所から見守っていた仲間の保育士の誰かが悲鳴を上げた。
痛みの部分を見ると、そこにはナイフのようなものが刺さっていた。そして恍惚の表情を浮かべる初老の男が見えた。
いけないと即座に思ったが、刃物の刺さった下半身は思うように動かなかった。
男がナイフを抜いた。傷口からドロリとした血が溢れ出す。着ている服が腰の部分からどんどん赤く染まっていく。
沙織は痛みを堪えながら、すぐ隣にいる亜紀ちゃんを見た。亜紀ちゃんはびっくりした顔でこちらを見ていた。
「大丈夫、大丈夫だから、早く保育園の中へ入って……早くッ!」
手を離して背中を押す。最後の部分は自然と命令のような強い口調になっていた。
だけど、亜紀ちゃんは動かなかった。
近くにいた保育士の安藤さんが慌てて寄ってきて、亜紀ちゃんの手を引っ張って連れていった。
沙織を刺した男は何かをぶつぶつと呟いていた。
それは権利の主張だった。
自分は被害者である。何度も警告文を送ったのに、この保育園は騒音問題を改善しようとしなかった。朝から子どもたちの騒がしい声を、騒音を、周囲に撒き散らして放置している。活動したかったら保育園全体を防音壁で覆えばいい。
周辺地域に迷惑をかけるのは間違っている。誰も声を上げない。誰も行動に移そうとしないから自分がすることにした。だから自分は地域の人々の代表として来ているのだ。丁重に扱われて当然である。
初老の男は、この後すぐに駆けつけた警察に対しても、堂々と同じことを述べたという。
一流大学を卒業して一流企業を定年まで勤めあげ、多額の退職金を受け取り、マンションを購入し、独りで悠々自適な引退生活を始めて、約半年後の出来事だった。
救急車がサイレンを鳴らしてやって来た。
沙織は救急隊員の人たちの手を借りながら担架に乗せられて横になった。といっても、腰に刺し傷があるため、仰向けではなくうつ伏せで寝かされた。
「住倉さん、しっかりして!」
園長先生や保育士のみんな、そしてまだ保護者の迎えを待つ園児たちの姿が見えた。もちろんその中には先ほどまで沙織と一緒にいた亜紀ちゃんの姿もあった。
良かった。
住倉沙織は三沢亜紀の顔を見て少し安心した。
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