1230人が本棚に入れています
本棚に追加
翌日は、昼までベッドで過ごした。外は薄暗く、一日中雨の音が聴こえていた。ぶかぶかの健太の服を着て、窓際に立つ私を彼が後ろから抱きしめる。
「迷うと思う」
『え?』
「だけど俺は…今だけじゃなくて、明日も明後日も…一年後も、できればその先も…チコと一緒にいたいって思ってる」
健太は一本の鍵を私に預けた。
「ここの鍵。夜、店に届けにきて。その時に返事聞かせて。もう俺に会いたくないって思ったら、誰かに預けてもらって構わないから」
健太は仕込みがあるからと少し早く家を出た。私はずいぶん長い時間、手の中にある鍵を眺めていたと思う。人には気を付けろ、みたいな事を言うくせに、健太も大概。出会ったばかりのツーリストに大事な鍵を預けちゃうんだから。
今日は9月2日。私がキューバで過ごす最後の夜。
健太の服を着たまま、だらだらと時間が過ぎていく。とりあえず、荷物をまとめなくちゃ。
あまり広くない部屋の真ん中で、ガバッと広げた真っ赤なスーツケース。希望と期待を詰め込んでここまでやってきたスーツケースは、燃えるような情熱的な色をして、今は健太の生活の中心で広がっている。
中身はぐちゃぐちゃ。私は一つひとつ丁寧に、ゆっくりと、収まるべき場所を確認しながら詰め込んでいった。自分の気持ちと重ね合いながら。
ほとんど準備を終え、家を出る。日本に持ち帰りたくなかった前の男への贈り物を手に持って、傘を差して路地を歩く。
店に向かって歩いているのに、まだ私は迷っていた。この鍵を健太に渡すか、預けるか。そんな事をずっと考えていたら、あっという間に店の前に着いてしまった。
『あれ…なんかパーティ…?』
ガラス窓から見えた店内が、軽く飾り付けられている気がした。少し入りづらさを感じていたら、陽気な2人組が中から肩を組んで出てきた。
「チコ~!!」
ルイス&アンディ兄弟だった。2人は嬉しそうに駆け寄ってきて、私はそれぞれとハグをした。
ルイスがまた早口でスペイン語を繰り出してきた。ところどころに”ケンタ”と言いながら。
「¿Estás aquí para celebrar?」
『えっと…』
誰かのお祝い?
「Cumpleaños de Kenta!」
ケンタの……誕生日…?健太の誕生日?!
『今日って健太の誕生日なの?!』
興奮のまま日本語でまくし立てたら、ルイス兄弟は顔を傾げながら、私の持つ紙袋を指差した。
“それはプレゼントじゃないのか?”
『Te daré!』
私はもっていた袋を”あげる”とルイスに押し付けて、その勢いのまま店内へ駆けて行った。
『健太!』
輪の中心に健太はいた。私の声に反応して振り返って、満面の笑みを浮かべる。私の来訪が嬉しくて嬉しくて仕方ないって顔。
“おいで”と手招きされて、私は健太に向かって一直線。両手を広げて待っててくれるから、私は迷う事なくその胸に飛び込んだ。
『もぉ!誕生日なら言ってよ!』
「言ったらそれをエサに来させたみたいになるだろー」
カリビアンな音楽が鳴り響き、酔いに任せてサルサとかタンゴとか踊らされ、まだ私は息が上がったまま。しっかりと指を絡ませて手を繋ぎ、上がった息のまま彼の部屋へ一緒に帰る。
「来なかったらどうしようかと思ったわー」
『ギリギリまで迷ってたんだけど…』
「決め手は?」
『笑顔』
「笑顔?」
『そう、健太の笑顔。嘘がなくて、好き。私を見つけた時に嬉しそうに笑ってくれたでしょ?あれ見て”やられた~”って感じ』
「そ?俺は今やられてる~って感じ」
水着の跡に沿って舌が這い、隠れていた部分ばっかり彼は攻め立てる。動きに合わせて軋むベッドの音も、甘く漏れる彼の吐息も、切なげに歪む顔も、全部全部覚えておこうと思う。
『もう誕生日終わっちゃったね…』
時刻は午前2時を過ぎたとこ。
「日本時間ならまだ2日だよ」
『そっか!まだ昼前だね。じゃあ…もう一度。健太、お誕生日おめでとう』
私は彼に、キスをした。
「ありがと」
健太に抱きしめられながら、9月2日がなんの日か興味本意で調べてみた。
『ねぇ、宝くじの日だって』
「へぇ、今年当たり年じゃん」
それって私のこと?ふふっと笑ったら、背後からも同じようにふふっと聞こえる。
『あ、健太が産まれてから今日で12054日だって。すごーい』
あれ、いちまん…にせん…。どっかで聞いたような…。
「どうした?」
『1万2千って数字…どこかで…』
「あぁ…チコが移動した距離だろ。たしかそんなこと叫んでた気がする」
“振られるために1万2千キロも飛んできたわけじゃない”
「やっぱさぁ…」
『え?』
「チコは最初から俺に会いにきたんだと思うんだよな」
『え?』
「だから、俺が生きてきた日数と同じだけ移動して、俺に会いにきたんだよ。最初から、俺の誕生日祝うつもりだったろ?」
なにそれ、ちょっと笑っちゃう。だけど、泣いちゃうくらい素敵なストーリー。
「だから泣くなって。目腫れるぞ」
『いい、サングラス掛けて帰るもん』
「……まぁいっかぁ…俺いるし」
そうだよ。もう1人で歩かないもん。
最初のコメントを投稿しよう!