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第1話 先生と住み込みと編集
ぱたぱたと小気味良い足音が短い廊下でした。
足音が止まり、からりと障子を開けて中へ声をかけた。
「先生ェ、おはようございます。そろそろ起きてください」
甲高くはないがまだまだ子どもの声だ。
部屋の中は薄暗い。
「先生ェ、今日は新しい編集さんがいらっしゃるんでしょう。お仕度してください」
子どもは容赦なく障子や襖を開け放った。
そしてものを踏まないように注意しながら、部屋に入ってくる。
「るせぇぞ、朝っぱらから」
酒に焼けた声が、薄汚れた布団の中から聞こえた。
「もうお日さまは十分上ってますよ。新しい編集さんが来られます。起きてください」
少年は手慣れたように、ものが溢れかえっている部屋から洗濯しなければならないものをつまみ出しては廊下に放り投げ、ごみは小さなごみ箱に入れていった。
「新しい編集?そんなもの、まだ来る時間じゃないだろ。もっと寝かせろ」
「お見えになるまでには時間がありますけど、一度お風呂に入らないと人に会うのはどうかと思いますよ」
「明日にしてくれ」
「そういって五回も延ばしているじゃないですか。さすがに榎本さんもご立腹です」
少年はえいやっとせんべい布団を剥ぎ取った。
「うへぇ、ひどい臭い。風呂にも六日も入ってないじゃないですか。沸いてますから入ってきてください」
布団の中にいたのは、髪も髭も延ばし放題で丸太のような手足をした大男だった。
「剃刀も当てて、すっきりしてきてください」
「おまえ、榎本からなにかもらったのか」
「まあ。脅されてもいますしね。次の連載が決まらないとお給料が出ないから俺もおまんまの食い上げだそうです。必死にもなりますよ」
「余計なことを」
「今回日延べしなかったら、榎本さんからお小遣いを少々いただく算段になっています」
ちっ、と大きな舌打ちが響いた。
少年は涼しい顔をしたまま、部屋を片付けていく。
「うへぇっ、これ、いつの褌?!一回の洗濯じゃ臭いが落ちないかも」
茶色く変色した布を摘まみ上げ、臭いをかいだ少年は顔をゆがめた。
「先生ェ、朝餉も召し上がるんですか」
「うるさい。少しは静かにしろ」
「じゃあ、俺は洗濯するんできちんと風呂には入ってくださいよ」
あっという間に廊下に溜まった洗濯物の山を抱え、少年は出ていった。
足の踏み場だけはできたようだが、ひどい有様の部屋に大男が残された。
しぶしぶむくりと起き上がり、薄汚れた寝間着の緩くなった袷から手を入れ、胸や腹をぼりぼりとかきむしり、大きくあくびをした。
そしてまた「ちっ」と面白くなさそうに舌打ちをした。
寝直す気にもなれない。
経済的にすぐにどうなることはないのも知っていたが、また少年にやいやい言われるのも適わない。
男は面倒くさそうに起き上がると風呂場へ向かった。
遠野第五と言えば、女性に大人気の売れっ子作家であった。
まだ二十歳そこそこの頃、榎本から才を見出され新聞に小説を連載すると瞬く間に人気となり、半年で終わるはずだった連載はなんと七年半も続いた。
連載中は自分が新聞を読む前に妻や娘が小説を切り抜いてしまう、と旦那衆から苦情があちこちで出たり、連載をまとめて本になると売り切れ続出となるほどの作品だった。
がたつくちゃぶ台で髙橋が座っていると、ぬっとむさ苦しい男が無言で部屋に入ってきた。
女物の着物をひっかけ、髭や髪は伸び放題で表情が全然見えない。
おまけに風呂上りなのかそれらは濡れたままだった。
「髙橋さん、お待たせしました。
先生ェ、お茶をお持ちしますね」
遠野の家を訪問すると、少年が出迎えてくれ、この部屋に通しお茶を出してくれた。
その少年が「先生」と呼ぶということは、これが遠野、ということだろうか。
髙橋は驚きを隠せなかった。
あの小説は有名な賞を取っている。
授賞式のときの模様が新聞に掲載された。そこには小さく、写りのよくない遠野の写真もあった。ひょろりと背の高い痩せぎすの優男だった。
そんな写真でさえ女たちは夢中になり、黄色い声を上げながら新聞を買った。当然すぐに売り切れてしまい苦情が殺到して大変だった、と榎本から聞いていた。
が、目の前にいるだらしない男は丸太のような手足をした大男だ。
自分でもその記事を見たことがあるが、面影すらない。
なにかの間違いではないかと髙橋は思った。
「話すことはない。帰ってくれ」
気を取り直して挨拶でも、と髙橋が思った矢先、大男はそう言うと立ち上がりのしのしと部屋から出ていってしまった。
「先生ェ?もうお話は終わったのですか」
「うるさいぞ、おコマ」
「だって」
「出てくる」
玄関の引き戸を開け閉めした音と下駄の音を聞くだけだった。
一言も発することができず、髙橋はますます唖然としてしまった。
そんな髙橋に申し訳なさそうに少年が顔をのぞかせた。
「遠野先生はいつもあんな感じなのですか」
「ええ、まあ。申し訳ありません」
少年は動じることもなく答えると、大きな溜息をついた。
そしてまたどこかへ行ってしまい、今度は盆に急須と小さな湯呑、そして髙橋が土産に持ってきた香榮庵の饅頭の包みを載せてきた。
ちゃぶ台の上にそれらを並べ、茶をいれた。一口すする。
「髙橋さん、せっかく持ってきていただいたお饅頭、俺が食べてもいいですか」
「え、ええ、どうぞ」
「先生ェはしばらく戻ってこないと思うから。帰ってくるのを待ってると傷んでしまうし。髙橋さんもどうぞ」
少年は包みを開き、饅頭をひとつつまむと包みごと髙橋に差し出した。
そして大きく口を開け、ぱっくりと饅頭を食べる。
「先生はどこへ…?」
「ん?ああ、女の人のところですよ」
髙橋は口をつけていた茶を噴き出しそうになるのを堪えた。
黙々と饅頭を食べている目の前の少年は、まだ子どもだ。意味がわかっているのだろうか。
「今日はあまり金を持っていないから、二、三日、ってところですかね」
少年は今度は茶をすする。
「うまいなぁ。もう一ついただきますよ。うまいときに食べたほうがいいし」
そう言って少年はまた饅頭をつまんだ。
「先生はいつもああいう感じで?」
「そうですね。俺がここに来たばかりのときはこの家に女の人を連れ込んでいましたが、最近はしなくなりましたねぇ。
俺がいると不都合みたいで。
言ってくれれば俺だって気を遣うのに、知らないものだから、夜中に呻き声がするので盗人かと思って箒を持って襖を思い切り開けたら、まぐわっていましたねぇ」
「いましたねぇ、って」
「そういうことが数回続いてからは、茶屋へ行くようになりました。もっとも安いところですけどね」
なんとも返答のしようがなく、髙橋は黙ってしまった。
「榎本さんからなにも聞いていないのですか」
「『最初から全部知っているより徐々に知り合っていくほうがいいだろう』と言われてきました」
「そうですか」
「で、君は?」
「コマと呼ばれています。住み込みで働いています」
「コマくんはいつからここに?」
「一年くらい前ですかね」
「ふーん。思ったより短いんだ」
「そうですかね」
「乱暴なことはされていない?一人で大丈夫なの?」
「ふふふ、ご心配ありがとうございます。
こういうことはよくあることなので、慣れました。
先生はあの風貌ですけど、手をあげられたことは一度もありませんよ」
コマは五つあった饅頭のひとつを半分に割り始めた。
「コマくんは饅頭が好きなんだね」
「はい!」
「全部食べていいよ。僕は二つでいい」
「本当に?」
「ああ、どうぞ」
「嬉しいなあ。ありがとうございます」
コマはにこにこしながら茶をおかわりし、三つ目の饅頭を食べ始めた。
それをなんとも言えない面持ちで眺めていたが、髙橋も饅頭に手を伸ばした。
「僕は先生に連載を持ってもらえるかな」
「さあ。最近いらっしゃる編集さんは榎本さんだけだし、今はなにも書いていらっしゃらないからなぁ」
「そうかあ」
髙橋は大きな溜息をつくと、コマがいれてくれた茶を飲んだ。
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ブログ ETOCORIA
最初から謝っておく。ごめん。 / 先生ェ!第1話
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