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恋に酔う
朝まだきに降る雨が、藤の花房をしとどに濡らす。
敷居のそばに、あなたは黙したまま座している。そのひたいを、雨雲を抜け辿り着いたかよわい曙光が、うすぼんやりと照らしていた。
「酔うてひとり、夢幻のなかを彷徨うのは恐ろしゅうございます」
紅のはがれたくちびるに、雫がひとつぶこぼれ落ちる。それをちいさな舌で舐めとって、あなたはつぶやいた。
重ね熨斗に花車。幾重のしあわせを願う唐紅の打掛が、畳のうえで投げやりに広がる。
「案ずることはないよ、わたしがちゃあんとつないでおいてあげるからね」
喉をしぼって出す声に、奇妙な愉悦がにじむ。それは美しいあなたをわが手のうちに留め置ける悦びであった。
──この身をつらぬく衝動を、ひとは「恋」と言うのだろう。
酔うているのは、わたしか、あなたか。
春の酩酊に囚われたまま、確かめるようにあなたの肌へと手をのばした。
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