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「何の用?」
「え?」
「何か用なの?って聞いてるの」
瞳はそう言うと、自分との距離を詰めてきたが、もう少しで触れそうなところで止まり、こちらに小さく微笑んだ。
大きな唇が笑みを作った。
美しい大きな目は不思議な色を湛えていた。
「別に。ここへ来たらあんたがいたってだけだよ」
「こんなとこに何の用事?」
「こういう廃屋が好きなんだよ」
「そう、趣味が合うわね」
瞳はそう言って微笑むと、さらに自分に近づき、こちらの背に長い腕を回した。
盛り上がった胸元がこちらに当たり、女はいきなり自分の唇を吸い始めた。
ねっとりと長い腕が身体に絡んできた。
次にはあの長い脚も絡んできた。
こちらも瞳の唇を吸ったが、やたらに甘い香りがした。
甘美と言うには濃すぎる甘さだ。
女はその後、後ろ手に手を回した。
自分は瞳の身体を支え、柔らかく密着し、張りついてくる肢体をまさぐった。
次の瞬間、
女の手が素早く動いた。
一瞬の間に、絡みついた瞳の肢体を蹴り上げ、密着した長い脚を外しながら、女のナイフを持った手を避けた。
女はニタニタ笑いながら、鋭利なナイフの先端を、こちらにものすごいスピードで振り下ろす。
こちらも素早く距離をとって、瞳に応戦する。
さっきの最初の一撃がこちらの腕を掠ったらしく、自分の右腕からは血が滴り落ちていた。
女の目は、まるで別人のように変色し、異常に渇いた眼差しをこちらに向けていた。
別人なんてレベルでは言い表せないほどの変貌ぶりだったが、自分はまさに"この女"に会いたかったのだ。
女はカマキリか触覚生物のような俊敏さで、研ぎ澄まされた肢体を、鋭利な刃物のように高速で動かした。
"この女"に会いたくて、ここまで来たのだ。
自分が会いたかったのは、"この女"だった。
高速で動き回り、こちらに鋭利なナイフを振り下ろしてくる瞳に、裏で連動するように、まるでこの無機質極まる廃屋が動いているように感じた。
"会いたかった女"に会うことは出来たが、
しかし瞳は、
結局ただの人間であった。
こうやって出会った男を殺し続けてきた女なのだろう。
人間の中にたまにいる、サイコパス人格の女というだけだ。
自分が会いたかったのは、"この女の本性"だったが、それは所詮人間の精神疾患だった。
だが。
女がこの廃屋で、孤独に夢想していたものは、自分が見ていた夢想と同じものだった。
瞳は何人も人を殺し、その殺す度に、廃屋のような無機質な夢を見ていた。
それを見たいがために人を殺し続けるのかもしれない。
暗闇に広がる、無人の廃墟。
その全てに、少しずつ月の光がサーチライトのように当たり、荘厳な暗黒美と、光のコントラストが見える。
女が見ている夢想もこれだった。
その荘厳な暗黒に桃源郷を見ていた。
自分と何も違いはしない。
お互い、それだけが救いなのだ。
そのことを確認するために、自分は"この女"に会いに来たのかもしれない。
瞳は自らの倍のスピードで動くこちらに舌打ちをしながらも、ギラギラと目を光らせていたが、しばらくすると高速で、この廃屋から消えてしまった。
この深夜、きっとどこかで、また血の雨が降るだろう。
そんな事は想像に難くない話だ。
廃屋から地上を見下ろすと、走っている瞳の姿が見えた。
小さく見えた。
ちょうど通りかかったトラックに声をかけられ、ヒッチハイクのように、女はトラックに乗り込んだ。
トラックはそのまま走り去ったが、運転手の死体が明日あたり発見されることだろう。
無数にナイフで刺された傷跡だらけの、血まみれの死体が。
女はこの星から逃れられない。
どこかで生息し続けるだろう。
だが、もうどこかへ消えてしまったような予感があった。
ギラギラした目でこちらを睨みつけながら、不敵な笑い声を上げていた瞳の顔は、まるで自分にそっくりだった。
どこか哀しい、無情な顔をしていた。
不意に、この暗闇の廃墟で瞳とダンスしたくなった。
だがそれももう叶わぬ夢だ。
あの女はもう、行ってしまった。
これからも人を殺す度に、自分と同じ夢想を見、それに包まれるのだろうか。
そんな気がした。
夜の闇に潜り込んで歩く。
廃屋を出て、ネオンライトもすぐにまばらになった道を歩いた。
不意に、また女の香りがした。
だが、もう会うことはないだろう。
結局本当の意味での接点などありはしなかったのだ。
あの女の精神疾患はもうどうにもならないだろう。
誰も救ってやることなど出来やしない。
だがどこかで、あの女は微笑を浮かべて生きているだろう。
あの廃屋のような寂れた場所かもしれないが、瞳の微笑がまた見たかったし、何処かで微笑んでいて欲しかった。
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