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救急隊員に指し示された車内の簡易椅子に腰を下ろし、重体の男を見下ろす。馬鹿なやつだ、と降谷は小さくため息をついた。どんな事情か知らないが若くして命を失うなど本人もやりきれないだろう。血生臭いのには慣れているせいか、患部を見ることにも躊躇いがない。それを不思議に思ったのか救急隊員が降谷に声をかけた。
「ご気分悪くないですか?」
「問題ない」
そうだ。まったくといっていいほど問題がないのだ。降谷はぐったりと生死をさまよっている男の顔を見下ろした。何度もこの目で見てきた男たちと同じ表情をしていないのが気がかりだった。普通は苦痛に顔を歪めるか、意識がないならば無表情のはずだがこの男は違った。うっすらと微笑んでいるようにも見える。口端が奇妙に上がり、目元も穏やかだ。異物を見るような目で男を見据える。だが、それも数秒の間だった。降谷と男にはなんの繋がりもない。だから、考えても意味はないのだと。ふとこの奇妙な若者の手のひらに触れてみたくなった。そっと手を重ねてみる。すると、ピクンと反応があった。弱々しいが確かに手を握り返している。救急隊員にすぐに報告すると、そのまま握っていてくださいと言ってきた。見知らぬ男の手を握って降谷は車内の天井をじっと見つめていた。
また、死ねなかったんだな。何回も自殺未遂をしていれば感覚でわかる。秀治は重たい体と沈んだ意識の底で自分を嘲笑する。落下して死ぬには十分な高さだと思ったのだが、数度も失敗することになるとは。これ以上のロケーションを見つけるにはまた時間がかかりそうだ。ふと、聞き慣れない低い声が聞こえたような気がして耳を澄ます。秀治の斜め右上から冷たい空気を纏った何かの存在を感じた。あたたかさを持たない冷たい何か。その何かと手が触れ合った。
「……」
纏う空気は冷たいのに、その手のひらは驚くほどあたたかかった。大きな手のひら。ひどく安心させるような……。秀治の意識はゆっくりと沈んでいった。このまま、このあたたかさに身を委ねてしまいたい。そう思いながら深い記憶の海に沈んでいった。
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