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「出て行ってから三ヶ月も経つのに、妻まだ帰って来ないんです」
「三ヶ月ね」
確かこの前来た時は、三週間って言ってたよな。
男の言葉をメモに取りながら、若い巡査は少々うんざりしていた。
次に歳を尋ねれば、また40と答えるだろう。
「いや、奥さんのほう」
「あ、そうでしたね。27です」
仕事だ。だが、同じやり取りをこうも繰り返されるとやはりストレスにはなってくる。
毎年同じ日の同じ時間きっかり。
男は、この小さな町はずれの派出所にやって来る。
「何であんなことをしたんだろう。あいつがちまちま皿を片付けているの見てたら、何だかイライラしてきて。仕事が遅いって、あいつのお気に入りのカップを叩き割っちまったんです」
「奥さんが気の毒だな」
「自分でも酷い男だと思います。妻が粉々になったカップに駆け寄って、屈みこんで泣くのを見たら気分がすっきりして、仕事の疲れも一気に吹き飛んでしまいました。そうしたら急に眠気が襲ってきて。気づいたら次の日の朝で。その時妻の姿はもう無くて」
「三か月も経つまで、一度も心配にはならなかったの?」
「すぐに帰って来ると思っていたんです。あいつはコミュ障だしスキルも無い。俺に食わせてもらうしか能のない女でしたから。
俺だって、ちゃんと同じカップを買ってあいつが帰ってきたら喜ばせようと思っていたんです。なのに、どういうわけかパソコンも携帯も調子が悪くて終いには壊れてしまって。それからしばらくは誰とも連絡がつかないし‥‥‥。
天罰だったんですかね。会社もクビになってました。
仕方ないじゃないですか、いくら掛けても繋がらなかったんだから」
雨が降り出していた。
霧のような細かい雨が風に乗、容赦なく吹き付けてくる。
じっとりと身体の中まで染み込んできそうな、不快な降り方だった。
外を眺めながら男は緩く笑った。
「すみません。やっぱり帰っていいですか?」
「え?」
「毎日妻を探して歩いて、今日こそは帰って来ているかもって期待して。
そういうことに少し疲れていたんです。そんな時、この交番に出会えました」
「遠かっただろう? ここに来る途中、けっこう交番はあっただろうに」
「ええ、在りました。でもどこのお巡りさんも怖そうで‥‥‥。それこそ
妻を三ヶ月も放っておいたとかすごく責められそうで。あなたがいるこの交番がいい! ってピンと来たって言うか」
「ありがとうと言うべきなのかな」
「はい。でもすみません。こうしている間に妻が戻って来ているかもしれない。その時俺がいなかったら、あいつはまたどこかへ行ってしまうかもしれません。ああ、こうしてはいられない。俺、やっぱり帰ります」
男がイスから立ち上がった。
「お茶、ごちそうさまでした。美味しかったです」
「捜索願い本当に出さなくていいんだね? これ以上闇雲に探し続けたら、君の精神がまいってしまわないかな」
「あいつはもう、生きていないかもしれません」
背を向けたまま、消え入りそうな声でそう言うと、男は雨の中に出て行った。
「君、傘を」
巡査はすぐに追いかけたが、男の姿はもう見えなくなっていた。
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