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ダイブする目標が有名な殺人鬼ともなると、まともなダイバーはまず受けないだろう。
リスクが高すぎるんだ。
他の比較的安全な案件でも、僕らダイバーは常に精神汚染のリスクに怯えながら、人の死を経験する。
そんな危険な仕事をしたい人間なんて、とても正気とは思えない。
「だから、迷わず二回もダイブをしてくれるミタテさんには、感謝してもし足りないよ」
「それが仕事だからね」
答えに使える言葉が、見当たらなかった。
こんな時どんな言葉を返せばいいのだろう。他のダイバーなら。ジキルさんならなんて言うのだろう?
わからなかったから、無機質な言葉を吐き出した。
「さっきは答えられなかったけど、私にとってはミタテさんが優しい人なんだ」
それだけは覚えていて。
言われて僕は、ただ頷くことしかできなかった。こういう時に動く感情の名前も、僕にはわからない。
浅く閉鎖的な人生経験を恨むしかなかった。
「ミタテさん」
「ん?」
「ありがとう」
人混みから外れた、静かな水槽の前。
少しだけ、うなじの毛が逆立った。
また軽く流そうとして、隠れ蓑になる言葉をかざそうとして。
けれど一度受け止めてしまったその言葉だけはどうしても受け流せなかったから、横目でユキシロを見る。
「どう、いたしまして」
卑怯だ、と思った。
だって、そうじゃないか。
いつも素っ気なくて、他人への感謝なんてゴミ箱に捨ててきたような態度のユキシロが、「ありがとう」だなんて。
それじゃあまるで、彼女が普通の女の子みたいじゃないか。
「おや? どうしたのかなダイバーさん?」
目が合ったユキシロが、僕の目を覗き込んでくる。いやらしい笑い方だ。
「別に。精神汚染で僕が殺人鬼になったら、どうやって君を殺してやろうか考えてた」
「ああ、それなら首を絞めやすいように髪を切っておかなきゃね」
「いや、その長い髪は似合ってるから、水に沈めてあげよう」
「お世辞でも嬉しいもんだね」
そうだ、ダイバーさん。
ユキシロの姿が視界から消える。
そうして何歩か人ごみに近づいて、振り返る。
「三回がリミットなら、無理にダイブしてくれなくていいからね」
そんなことを、実に腹立たしい作り笑いで行ってくる。やっぱりこの少女は、気に食わない。
「言ったろ」
笑いかける。薄く薄く。けれど、酷く挑戦的に。
「僕は失敗しないよ」
もう失敗するわけにはいかなかった。
ユキシロは母親の最期を知りたがっていて、僕はその最後の砦。
(失敗したくない)
それが僕の本心だった。
「吠え面かくなよー!」
ユキシロが離れて、人ごみに消えていく。
追いかける。捕まえた手は震えていた。
「やっぱり、外が怖いんじゃないか」
「大丈夫だよ」
強がるように雪見が笑う。
その額には汗が流れている。視線が怖いのかもしれない。
手を引いて、僕らは人混みを抜けた。
もう僕らの間に距離はなかった。
歩く度に、すれ違う手と手がぴったりと触れる。
偶然にしては不自然なほど長い間重なっているのに、ユキシロはずっとそうしていた。
僕も、それを指摘したりはしなかった。
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