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「私、恋をしてみたいの」
長かった水族館の終わり。
天の川みたいに散りばめられたクラゲを見上げながら、ユキシロがポツリと呟いてくる。
発言の真意が読めないから目線を下げると、彼女は顔を伏せていた。
薄暗いクラゲの銀河。反響する幻想的なBGM。長い髪に隠れた顔から、ほんの少しだけ赤らんだ頬が覗いている。
恐る恐る顔を上げたユキシロと目が合う。またすぐに顔を隠す。
「ごめん、忘れて」
彼女の言おうとしたことを理解して、初めて僕の心臓が跳ね上がる。踵からつむじまでの毛が逆立って、熱くなったお腹がストンと落ちる感覚。
醜い衝動が頭の中を跳ねまわる。
「理由がないよ」
僕は間違っている。
そんなことはわかっていた。でもボコボコと、マグマみたいに沸き起こる何かの熱が、僕をそのまま突き動かしていた。
沈黙が、怖かったのかもしれない。
「忘れてって言ったじゃん」
顔を隠したまま、「でも」と接続詞を置く。
「そういうのはさ、理屈じゃないんだよ、きっと」
顔を上げる。ようやく僕を見た顔は、意外にも晴れやかだった。
「人の感情の一つ一つに用法用量なんてのがあったら、つまんないでしょ?」
確かに、そうかもしれない。どうせ人の脳はバグだらけで、優しさという奴が時に人を殺すのだから。
僕はその一部始終を見てきたはずなのに、その経験のない少女がそれを理解している。
「君はすごい女の子だ」
「へへ。いっそダイバーさんたちを批判する人権屋さんたち、殺して回る?」
「未成年に殺しを教えるのはご免だよ」
昔の映画に出てきたような殺し屋にはなれない。僕はミルクは苦手だし、長ったらしい名前のカーティシーを育てる自信もない。
ただ、
「殺し方は知ってるもんね」
「ああ、一通りの死に方は経験したよ」
「殺し屋って言うよりは、殺され屋だね」
「過言じゃないな」
ふざけた笑いをつなげながら、たゆたうクラゲを眺めて回る。
まだ目は合わせられなかったけれど、それでも気づけば、いつも視界にはユキシロがいた。
心臓の音を介して、誰かがずっとユキシロの名前を呼んでいた。
──深入りはしちゃあいけないよ?
──それじゃまるでデートだな
違う、これは深入りでも、デートでもない。
自分に言い聞かせても、事実を突きつける言葉は、ずっと頭の中を低回していた。ちょうど雨前の燕が、低く飛び回るように。
洗脳みたいな言葉を思い出してしまったから、嫌でもユキシロを意識してしまった。
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