くいかげさん

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くいかげさん

 くいかげさんや、くいかげさん。  ちょっとあいつを食らうておくれ。  はいはい……お呼びで……かしこまりました、奥様。  お部屋にあった腕時計を、こっそりコートのポッケに隠し、私のものだと言い張った、中年女はこの通り、とうに胃の腑で消化ずみ。  くいかげさんや、くいかげさん。  ちょっとあいつを食らうておくれ。  はいはい、今度は……ええ、ええ……お安いご用、お嬢様。  悪口を言ういじめっこ、間抜けに遊ぶかたわらで、公園にある緑がはえる、うつじの植え込みへお邪魔して、様子を見ながらひとくちですよ。  くいかげさんや、くいかげさん。  ちょっとあいつを食らうておくれ。  はいはいただいま……おやおや、ぼっちゃん、ずるをしてはいけません。 トマトに、ピーマン、にんじんと、お色が濃いお野菜は……おきらいですか?     困りましたねえ……ぼっちゃん、きちんと食べなきゃだめですよ。  ぼっちゃんが、大きくなるためにとってもだいじな、栄養たっぷりなんですよ。  くいかげさんや、くいかげさん。  ちょっとあいつを食らうておくれ。  はいはいどうも……だんなさん、なにかのご冗談じゃないですか?  いくら火遊びだからといって……、わたしに食わせようとは……いくらなんでも、無理がありますよ。    痴情のもつれが面倒なゆえ、チャチャッと食うておくれとは……いくらだんなさんの頼みとはいえ、こればっかりはいけません。  どうか奥様に頭を下げて、ごめんなさいとおっしゃいな。  うちには、くいかげさんがいます。  くいかげさんは、いつもは冷蔵庫と洗面所のあいだとか、たんすとふすまのあいだとか、狭くて暗い隙間にいるんだって、パパが教えてくれました。  嫌なことがあったとき、苦手な人がいるときや、辛いことをされたときは、隙間に向かって言うのです。  くいかげさんや、くいかげさん。  ちょっとあいつを食らうておくれ。  そうすると、くいかげさんはそっと、隙間から出てきてくれます。  ふんわりと丸い、うすぐらい、おおきなネコみたいです。  さわるとつめたくて、やわらかくて、眠くなってしまいます。  くいかげさんは、いつもおなかをすかせています。  だから、よほどのことがないかぎり、いじわるな奴を骨までムシャムシャ、ゴリゴリ食べてしまいます。  でも、僕の野菜は食べてくれませんでした。  好き嫌いはいけませんよ、と逆にしかられてしまいました。  僕は「あーあ」とため息をついて、鼻をつまんで食べました。  食べ終えると、くいかげさんは「ぼっちゃん、立派でしたね」とほめてくれて、僕が大好きなチョコレートを、そっとおすそわけしてくれました。  先生は、くいかげさんに、何を食べてほしいですか?  いつも、遅くまでパパとしゃべっているのも、パパの車でおでかけしているのも、みんなみんな、くいかげさんが知っています。  もちろん、ママも知っています。  ママにも、今度、くいかげさんが話してくれるそうです。  僕は、くいかげさんはきっと、ママが大好きなんだなと思いました。  先生、パパをおうちにかえしてください。
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