5輪目

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5輪目

「夏輝〜! あんた、遅刻するわよ!」 「…今日は休む。」 下から叫ばれた声に小さな声で私は応えた。お母さんに聞こえるわけがない、と思っていたらドアがノックされた。無視してそのまま布団の中に潜っていると、勝手に開けられた。 「どうしたの? 最近、楽しそうに行ってたじゃない。何か、あったの?」 どうやらさっきの言葉が聞こえていたようで、下から上がって来たらしい。布団を頭から被っている私に話しかけるが、何も話したくないので沈黙で答える。 「はぁ… お母さん、何でも聞くわよ。今日、仕事お休みだから、いくらでも時間あるんだから話しなさい。」 半ば強引に話させようとするお母さんは私のベットへと腰掛けた。悩んでいる内容を話すべきか、話さないべきか、ぐるぐる頭の中で回っていた。 「…学校で、友達が出来た。でも、私、その子といるとドキドキして、その子に『友達』って言われると、胸が苦しくて… 友達なのに、おかしいのかな。私、病気になったのかな。」 話している時でも胸の奥が熱くなって、何かよく分からない物が込み上げて来た。それを必死に抑えようとするけど、何だか怖くなって来た。 「…夏輝。それは病気じゃないから大丈夫よ。安心して。」 「ほんと⁉︎」 頭まで被っていた布団から私はバサッと出た。その衝撃でお母さんは落ちそうになったけど、すぐに座り直した。お母さんの顔を見ると、ニコニコと私を見ている。 「ええ。それはね、『恋』って言うのよ。」 「こ、い…?」 「そう。その人のことを思うと、胸がぎゅーってなったり、近くにいるとドキドキするの。ほら、今の夏輝と一緒でしょ?」 「うん…」 「夏輝はね、その人のことが、大好きなのよ。」 「そう、なんだ…」 力が抜けていく気がした。今まで張り詰めていたものが切れた気がしたら、頬に何かが伝って来た。自分の指で触れてみると、それは涙だった。 「…人を好きになるって、素敵なことよ。」 私の頭を撫でながら言うお母さんは独り言のように呟いた。そして、そのままお母さんは静かに私の部屋を出て行った。 あれだけ天才と呼ばれているのに、こんなことも分からないないなんて。私の知らないことが、この世界にはいっぱいあるんだ。 そんなことが頭の中を巡っていたのに、それをも遥かに上回る程の彼女の顔がよぎった。 笑った顔、泣きそうな顔、太陽を見つめている顔、私に「友達、でしょ?」と言った時の顔。全て、私の中で覚えている。 彼女が嬉しかったら、私も嬉しい。 彼女が悲しかったら、私も悲しい。 これも、きっと「恋」のせいなのかな。 ふと思い立って自分の部屋にある辞書を手に取った。小学校に入る前に必要だからと言って買ってもらった辞書だ。 たくさんの本が並べられている中に混ざって置いてあるその一冊の辞書を使って、その意味を調べてみた。 すると、更に胸の痛みが増した。 思わず目を見開いたその意味に、私の心はもうはち切れそうだった。目からボロボロ落ちてくる雫が私の視界を濁らせていく。 次第にクシャクシャになる紙を引き千切り、ビリビリに破いた。そして、そのままベットに戻り、布団を被って声を押し殺すように泣いた。 *** 目が覚めた時にはもう夕方だった。あのまま私は寝てしまったらしい。壁にかかっている時計を見ると、すでに五時を越していた。 (結果的に、学校行かなかったなぁ。) 夏だからなのか、まだまだ日は昇ったままで外は明るい。明るいと言っても、もう夕方に差し掛かっているような明るさだったので、これからどうするかを考えた。 とりあえず、ベットから出てお気に入りのスリッパを履いた。ゆっくりと歩いて下へと降りていくと、リビングのドアが開けっ放しになっていた。 中に入って見ると、テレビの前に置いてある机の上に一枚紙が置いてあった。近づいて手に取って見ると、そこには「買い物行ってくるね。お腹空いたら、冷蔵庫にあるケーキを食べてね。」とお母さんの字で書いてあった。 それを見て少し笑みが溢れた。ケーキを食べようと思ったその時、星羅ちゃんのことが頭をよぎった。 今日は学校を休んでしまったので一回もあの場所へ行っていない。大好きなケーキを後にして、私は自分の部屋に戻り準備をした。 学校はもうすでに終わっているので、私服で行くことにした。この前、お母さんと一緒に買ったあの服を着ようと思い、すぐに服を脱いだ。 着替えてからは窓が閉まっているかを確認して、玄関の鍵を持ってすぐに家を出た。夕方と言えど、まだまだ夏独特の匂いが残っている。 自分の手で風をおこそうとするが、生温い風しか来ないのですぐに諦めた。彼女に会いたい気持ちが増し、早歩きになってしまう。まだ彼女に会えるかどうかも分からないのに、心の中では踊っていた。 学校に着くと、運良くまだ校門が開いていた。誰もいないことを確認し、素早く入った。 まだ先生や他の生徒がいるかもしれないと思い、慎重に行動した。無事に誰にも会うことなく、あの場所へと辿り着けた。辿り着いた時にはすでにカモフラージュが外されていたので、きっと中にすでにいるのだろう。 「スーッ…フゥー…」 深く息を吸って吐いて、ドキドキと鳴っている心臓を落ち着かせた。今朝、お母さんにあんなこと言われたから、深く考えてしまっているようだ。 いつも通り、いつも通り、自分にそう言い聞かせて穴を潜った。 その穴を抜けた瞬間、思わず目を瞑ってしまった。 「ま、まぶし!」 少し大きな声で言ってしまったから、立っていた彼女が振り返った。逆光で彼女がどんな顔をしているかは分からなかったが、そのまま隣へと歩いて行った。 「今日、来ないかと、思った。」 夕日で輝いて見える星羅ちゃんは、驚いたような顔をしてるのを近づくにつれてやっと分かった。私は、軽く微笑んで立っている彼女の横に座った。 「…ちょっと、色々、あってね。ごめん。」 「ううん、大丈夫。夏輝、来てくれたから。それだけで、嬉しい。」 一緒に屈んで私と同じ目線で話してくれる彼女は、いつもと同じ優しい笑顔だった。私は、その笑顔に引き込まれ、ずっと見つめていたいと思った。そして、思わずこんな言葉が出てしまった。 「大好き、だよ。」 「…え?」 私達の間に大きな風が吹き抜けた。 自分で何を言ってるのか分かった時には、顔がどんどん赤くなるのが分かった。ああ、どうしよう、そう思った時には遅かった。 私の言葉に固まってしまった彼女は、一ミリも動かない。どうしよう、何て誤魔化そう、と考えていると、彼女が先に話し始めた。 「…ふふ。私も、大好き、だよ。」 目を細めて笑いかける彼女に心が揺れた。たどたどしく言う彼女のことも、大好きなんだろう。 「友達と、して、ね。」 ゴンッと、頭に何か重いものがぶつかって来た気がした。彼女の言葉は、私をフワフワした感覚から目を覚まさせるには十分だった。 私は、頷くことしか出来なかった。上手く、笑えているのだろうか。この気持ちは、悟られてはいけない。 上手に、上手に、彼女の、『良き』友達でいられるように。そう思わないと、どうにかなってしまいそうで怖かった。 「…月が、綺麗ですね。」 彼女が小さく呟いた言葉の意味が分からなかった。中国語かと思ったが、違う気がする。 「それは、どこの言葉?」 「これ、日本語、だって。私達の、本当の言葉。」 「日本語… 初めて、聞いた。」 私達の祖先が戦争前に使っていた言葉。私は全く意味が分からない。 占領されている国の言葉で教育が行われているので、日本語というものは全く知らないのだ。 「それはどんな意味なの?」 「…内緒!」 一瞬、悲しそうな顔をしたが、すぐに優しい笑顔に戻って言った。でも、その笑顔は私が知っている、大好きな笑顔ではなかった。 それが心の中で引っかかったけど、何だか聞けるような雰囲気でもなかったので、「そっか。」とだけ言った。 一緒に体育座りして、ずっとひまわりを眺めていた。生暖かい風が揺れながら、大きな大きな太陽が沈んでいくのを見ていた。 少しずつ傾いていく太陽は、二つの影をだんだん大きくしていった。 隣にいられる、それだけで幸せなんだと思うようにした。彼女は、国も言葉も違う友達。あと、二日で彼女は帰って行く。その事実が私の胸を去更に締め付けた。
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