1.柊真

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1.柊真

「しゅうまー」 中国支社から数年ぶりに帰国した日下部(くさかべ)柊真(しゅうま)を迎えたのは、元恋人で友人の名波(ななみ)眞比呂(まひろ)だった。 栄転で中国勤務になった柊真(しゅうま)は、失恋して傷心し、それを忘れるためにばりばり働き、そのうち傷を癒してくれる相手が出来るだろうと高をくくっていたのだが、結局一人のまま日本に戻ってくることになった。 たまたま電話でそのことを話すと、眞比呂が迎えに行ってやるよ、と車を出してくれたのだ。 「眞比呂、久しぶり。悪いな」 「へーきへーき、今日休みだから」 日本を出る時に、自棄(やけ)になって住んでいたマンションもすべて引き払った。 あまり本心が顔に出ない性質なので周りには気づかれなかったが、実はかなり傷ついていた。 眞比呂はアクセルを踏み込みつつ、さらりと言った。 「今日はホテル泊まんの?」 「うん、家ないから」 「いつまで?」 「うーん・・・まだ何も考えてない」 「・・・誰かの家に転がり込めば?」 「眞比呂さんと一緒にしないでくれます?」 「失礼だなあ」 眞比呂には、年下の恋人がいる。眞比呂は高校の教師で、恋人も同じ高校で働く後輩教師だとか。 お互いいまさらよりを戻すつもりはないので気軽に話せる。が、やはり気は遣う。 「今日、彼氏は?」 「さあ、何してるかな」 「今度会わせてよ」 「いいね、飯でも行こか」 眞比呂は愛車で高速を滑らせて、柊真の泊まる予定の高級ホテルのエントランスに停車させた。 眞比呂はサイドブレーキを引くと、笑顔で言った。 「じゃあさ、今週中に飯行こうぜ。連絡するから」 「うん、電話してよ」 1週間の宿泊費は会社が出してくれる。その間に新しい住まいを見つけなければならない。 フロントで美しく微笑む女性に日下部です、と告げると、お待ちいたしておりました、とカードキーを差し出された。通常の名前や住所を記入する手続きはいらないらしい。 事前にスーツケースは送ってあるので、荷物はブリーフケースひとつのみ。柊真はエレベーターに乗り込んだ。 先客はいなかった。 無音で上がっていくエレベーター。柊真の部屋は24階だった。 久しぶりの日本、仕事よりもまず家探しをしなければならないのが面倒臭かった。 自動扉が左右に開き、柊真は足下を見たまま箱を降りようと一歩踏み出した。 「うわっ」 「あっ・・・すみませ・・・」 同じタイミングで乗り込んで来た男と柊真は正面からぶつかった。 衝撃で柊真が右手首にはめていた腕時計が外れ、カシーン、と音を立てて床に転がり落ちた。 拾う間もなくエレベーターの扉が閉まりかけ、あやうく時計が溝に挟まれそうになったその瞬間、衝突した男がエレベーターの扉を無理矢理掴んで閉じるのを防いだ。 あっという間だった。 時計を拾い上げた男は、目で柊真にエレベーターを降りるように促した。 彼は柊真より一回り以上年上に見える、上品な出で立ちの紳士だった。 「ああ・・・文字盤に傷がついてしまったね」 男は柊真の時計を隅々までチェックした。その時計は中国に赴任する直前、失恋の気持ちを紛らわせようと奮発して買った海外のブランド物だった。 「申し訳ない、弁償させてもらえませんか」 「いえ、そんな、こちらこそちゃんと前を見ずに・・・」 明らかに年上、かつ24階のVIPフロアから出てきたこの男に、柊真は自然に敬意を払った。 上質な雰囲気を纏い、身につけているものも、口調も、全てが洗練されていて隙がない。エリートである柊真から見ても、間違いなくどこか大きな会社の経営者か何かだ。 「エレベーターは、降りる人が優先だ。先に乗り込もうとしてぶつかった私に否がある。どうか弁償させてください」 「そんな気を遣っていただくようなものでもありません。最近調子が悪くて、たまたま外れてしまったんです。どうか気になさらないでください」 紳士は柊真の顔をじっと見つめた。 その瞳の強さに柊真は知らず、心臓の拍動が早くなった。 「こちらにお泊まりですか」 紳士は時計を持ったまま、柊真に尋ねた。 「は・・・はい、一週間ほど」 「では、せめて今夜、夕食をご一緒しませんか」 「え・・・・・・」 「このままこれをお返しするわけにはいきません。・・・いかがでしょうか」 急な申し出に柊真は戸惑った。が、あまりにも真剣な様子に、とっさに断る理由を見つけられなかった。 柊真が答えられずにいるうちに、紳士はスーツの胸ポケットから名刺を取り出し、すっと差し出した。 「ここの最上階のレストランバーで、19時に。私の名前で予約をしておきますので」 「えっ、あの、」 紳士は優しく微笑むと、エレベーターのボタンを押し、再び開いた扉の中に柊真の時計を持ったまま消えていった。 「・・・え?」 一人残された柊真は、紳士が置き去りにしていった名刺の名前を見て、素っ頓狂な声をあげた。 美濃部(みのべ) (かおる)。 それは柊真が働くグループ会社をつい最近買収したばかりの、海外資本の企業のCEOだった。
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