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4.柊真と薫
(結局来ちゃったけど・・・どうしよ・・・)
エレベーターでぶつかってしまった紳士、美濃部薫氏に招かれて、ホテル最上階のレストランバーの前に柊真はいた。
名刺を見て、彼がとんでもない上司であることはわかった。
が、これから食事をするというのに、実はあなたの部下です、と言うのはどうにも気が引ける。ただでさえ柊真の時計が壊れたのを気に病んで、持って行ってしまっているのに。
何万人といる社員のひとりなのだから、名乗ったところでわかりはしない。今日はとりあえず黙っておこう。柊真は覚悟を決めて、レストランバーの自動ドアの中に足を踏み入れた。
「・・・・・・ん?」
違和感を感じた。
間接照明の美しい店内。入り口からまっすぐのところに漆黒のグランドピアノがあり、肩を出したイブニングドレスの女性ピアニストがクラシックの名曲を弾いている。
ガラステーブルとベロア調の椅子がずらりと並んでいるが、どうしたことかどの席にも誰も座っていない。
(これは・・・まずいやつだ・・・まずいぞ・・・)
貸し切られたバーの真ん中をタキシードのウエイターに案内され、明らかにVIPルームだと分かる個室に通された。
「美濃部さま、お連れさまでございます」
先に来ていた美濃部薫は昼間とは違う、一見、値段のわからない、しかしおそらくはイタリアあたりの超上質なスリーピーススーツに身を包んでいた。
自分の持っている一番値段の張るスーツを着てきて良かった、と柊真は思った。
「お待ちしていました。どうぞ、こちらへ」
個室は夜景が望める大きなガラス窓があった。テーブル側にはワインが冷やされている。酒好きな柊真には、のぞくラベルでそれが高級なものだとわかってしまう。
ウエイターに促され、柊真はおずおずと椅子に腰を下ろした。
「み・・・美濃部さん・・・あの、これは・・・」
「ワインはお好きですか?今日は赤を用意したのですが」
「いえ、あの、」
「もし白の方がお好きなら、すぐ用意させましょう。それから料理はシャトーブリアンを・・・」
「美濃部さん!あの、困ります、このような・・・」
「これは私の気持ちなので、どうかお気になさらず。まず、一杯」
場慣れしている感のある美濃部に気圧されながら、柊真はグラスに注がれたワインを口にした。
これがあまりにも美味で、思わず、うまい、と口走ってしまった。
「よかった、お口にあったようですね」
「・・・すみません」
「謝らないでください。むしろ大切な時計に傷をつけてしまって、謝らないといけないのは僕のほうですよ」
「美濃部さん、その件ですが、本当にこんなことしていただくわけには・・・・・」
焦る柊真を見つめ、美濃部はグラスを置いて微笑んだ。
「・・・では、上司命令っていうのは、どうかな」
「えっ」
「日下部くん。中国支社での活躍は聞いているよ」
「僕のことを・・・・・・ご存じだったんですか・・・」
柊真はあのエレベーターで名乗ってもいなければ、名刺を取り出す暇すらなかった。
なのに彼は最初からわかっていて、この食事に誘ったということだ。とんだ茶番だ。しかし相手の立場が立場だけに、顔色を変えるわけにもいかない。
「有能な人間の情報は、必ず僕の耳に入ってくるようになっているよ。では、改めて、」
美濃部は右手を差し出した。
「この度グループCEOに就任した美濃部薫です。お見知り置きを」
「く・・・日下部柊真です」
「柊真くん・・・と呼ばせて貰ってかまわないかな?」
「は、はい・・・」
部下だと知っていてこんな至れり尽くせりの席を設ける美濃部の考えていることがわからない。むしろ平謝りすべきは柊真の方だ。
全くくつろげないまま、柊真はワインをもう一口飲んだ。
「・・・黙っていて済まない。どうしても君と話をしたかったのでね」
「社長・・・あの、僕は何かミスを・・・?」
「まさか!今日来て貰ったのは純粋にお詫びだ。それから・・・」
美濃部は言い淀み、若干弱々しくつぶやいた。
「君を呼んだのは・・・僕の・・・非常に個人的なことなのだが」
「個人・・・的、ですか」
「まずは、食べよう。話はそれからだ」
美濃部が言うと、待ってましたとばかりにウェイターがドアを開け、ワゴンに載せた前菜をうやうやしく運びこんだ。
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