動かない雲

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 ちょうど2週間前から、全くその位置を動かない大きめの雲があった。病床から窓を通して見えるその雲を、少年は「チコ」と名付けた。「チコ」というのは、つい先日死んでしまったペットのチワワの名前である。小さくて真っ白な、可愛らしい犬だった。少年は病弱で、小学校にあまり行けていないから、親しい友人はいない。そのペットが唯一の友達といってもよかった。その名前を今度は雲に付けたのだ。 その雲の存在に気づいたのは今から1週間前で、気づいた当初は、全く動かないその大きな雲にある種奇妙な感じを抱き、気味悪がったものだったが、風に吹かれようが、雨に打たれようが、少しもその場を離れようとしない勇ましいその姿に少年はいたく感動し、いつしか心の中でその雲に話しかけるようになっていた。 「ねえ、チコ。聞いてよ。今日お母さんにちゃんと勉強しなさい、って怒られたんだ。みんなに遅れちゃうからって。そんなこといわれても、もうとっくに差はつけられてるのにねえ」 とか、 「今日の朝ご飯、全然美味しくなかった。病院のご飯ってなんでこんなに味が薄いんだろう」  とか。他愛もない話ばかりではあったが、少年にとってはチコと話すことが、その不安な心を慰める上でとても大事なことだった。チコは、少年にとって大切な親友なのである。眠れない夜中にも、窓の方に目をやれば、そこには夜のとばりに包まれたチコがうっすら見え、チコが見えると安心して、少年はぐっすり眠ることができるのだ。チコと出会ってから、一人で何をするにも、例えば本を読むにも、折り紙をするにも、不思議と一人でしてる気はしなかった。一度、チコにチコの絵を描いてあげたこともある。チコはまん丸で、こちらに笑いかけているような優しい形をしている。どことなく、ペットのチコに似ているその愛らしさが、少年にはたまらなく嬉しかった。  明日に手術を控えた少年の気は重かった。手術が成功すれば少年の病も完治すると医者はいうが、少年は、自分の腹が切り開かれ、内臓をえぐられるのが怖くて仕方がなかった。医者は、簡単な手術だから大丈夫といっていたが、少年には信じられず、きっと死ぬに違いないと思っていた。しかも、今日は台風で、昼なのにやたら辺りが暗く、窓をたたく恐ろしい風が、びゅうびゅううるさかったことも、少年の厭世的な気持ちをさらに加速させていたようだった。 ふと少年はチコのことを思い出した。窓の方を見ると、チコが強風にあおられながらも流されまいと懸命に踏ん張っている姿が目に入った。周りの雲や空はものすごい勢いで流されている。にもかかわらず、チコだけは微動だにしない。その姿に少年は、 「さすがチコ!」  と、胸をなで下ろしたが、しかし、よく見ると、徐々に端の方から削られていっているのがわかった。チコは小さくなっていく。少年は泣きそうになり、また友達を失うのかと思うと、いてもたってもいられず、気がつくと、 「チコ! 頑張れ!」  と大きな声で叫んでいた。しかし削られていくスピードがおさまることはない。チコは時間の経過とともにさらに小さくなる。少年は自分に何ができるか必死に考えたが、結局どうすることもできなかった。自分の無力さにうちひしがれながら、少年は涙で濡れた手を合わせて祈るほかなかった。  夕方になると、嵐はすっかりおさまった。もう、風一つない。まるで嵐などなかったかのようだ。雲もきれいに洗われて、夕焼け空がキラキラと一面に広がっている。少年はその生まれ変わった風景を見て、愕然とした。もう何回も見て、見慣れているあの位置に、チコはちゃんといたのだ。その体は元の5分の1くらいになってしまっていたが、あの愛らしい形をしたチコは確かにそこにいる。小さくなったチコは、まるで死んだはずのチワワのチコが、夕焼けに浮かんでいるかのように、少年には見えた。すると、もうこの世界には、自分とチコの二人しか存在していないような感覚になって、少年は、夕日に照らされて輝く荘厳なチコの姿を、憑かれたようにいつまでも見ていた。そして思った。 「もし明日の手術が失敗して死んでも、僕は雲になればいいんだ。チコのような強い雲に。そうしてチコの隣に行けば、チコとずっと一緒にいられるじゃないか」  その日、少年は深く眠った。  手術は無事成功した。少年は目覚めて腹の辺りを見ると、縫った跡が確かにあって、ズキズキと痛む。 「あー、僕は生きているんだな」  目の前では両親が、担当医に感謝の言葉を述べて何度も頭を下げている。少年はその光景を見ながら、思い出したように、 「そうだ、チコに報告しないと」 と、いつものように窓の方に目をやった。が、もうそこにはチコはいなかった。少年は不思議に思って、窓に近づき、あちこち見回してみても、やはりいない。少年はすべてを理解した。しかし、涙は出なかった。少年は、雲一つない透き通った青空に向かって、 「チコ……。ありがとう」  と心の中で呟いた。
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