1 榊原雑貨店

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1 榊原雑貨店

2008年9月某日――    夕暮れ時の名もない小道は、毎度のことながら閑散としている。遠くに聞こえる烏の鳴き声。小さなショーウィンドウから差し込む夕日だけが、店内を眩しく染め上げる。  霞木(かすみき)奈緒(なお)はカウンターの椅子に座りながら、分厚い単行本に目を落としていた。この時間だと、ただでさえ少ない客ももう来そうにない。もう店番などいらないのではないかとも思うが、任された仕事は一応こなさなければいけない。奈緒は、薄暗い天井に向かって大きなあくびをすると、再び本に視線を戻した  その本は、推理物の小説だった。聞いたこともない作家の聞いたこともない作品だが、読んでみるとそれなりに面白い。特に、探偵役の老人と助手の青年のコンビが魅力的なのだ。二人はお互いに支え合いながら、他にも様々な人の手を借りて、共に事件の真相に迫っていく。こういう、色々な人の力を合わせて巨悪に立ち向かう、という王道な展開が、奈緒は好きだった。  奈緒は自分が店番であることも忘れて、物語に没頭していた。そのとき、入り口の方から、木が軋むような音がした。誰かが扉を開いたのだ。それに続いて、誰かの足音が店内に入ってきた。奈緒は突然の来客に少し驚き、物語の世界から抜け出そうとした。しかしそれと同時に、その足音の主の正体を察すると、何事も無かったかのように読書を再開した。 「随分と、あたたかいお出迎えだな」  おなかの底に響くような低い声。老人探偵の台詞に影が落ちる。振り返ると、そこには榊原(さかきばら)宗貴(むねたか)の姿があった。  榊原は皮肉な笑みを浮かべながら、奈緒の様子を伺う。だが、それでも大した反応が返ってこないと分かったのか、榊原は黙ってカウンターの中に入り、そのままキッチンの方へと向かった。 「遅かったですね。また何か変なもの拾ってきたんですか?」  奈緒は目線を落としたままそう尋ねる。彼はしばしば、どこで手に入れたかも分からない妙な品物を持ち帰ることがある。時には、どう見てもただのガラクタにしか見えないものを、興味深いと言ってそのまま店の商品にしてしまうこともあるのだ。  だがそんな奈緒の不安をよそに、榊原は平然と「ごく普通の、夕飯の材料を買ってきただけだ」と答えた。いつもの、どこか締まりのない呑気な口調だ。  奈緒は机に置いていた銀縁の眼鏡をかけると、ぱたんと音を立てて本を閉じ、それを目の前の本棚に戻した。本棚に置かれた本たちは、背表紙が後ろを向いていたり、ひっくり返っていたり、斜めに倒れていたりと、なんとも適当に配置されている。それはまさに、この雑貨屋を象徴しているかのようなアイテムだった。  この雑貨屋の店内は、一言で言えば、混沌としている。商品棚は、金属製の安っぽいものもあれば、アンティーク調の小洒落たものもあったりと、何の統一性もない。どこを見ても無秩序だ。通路の中途半端な位置に、正方形のカーペットが敷かれている。なぜか大量のビー玉を乗せたハンモックが、天井からぶら下がっている。右腕と左目が欠落した巨大な熊のぬいぐるみが、部屋の隅に佇んでいる。店内に一歩足を踏み入れれば、趣味の悪い迷路に迷い込んだかのような気分になる。それがここ、榊原雑貨店だ。 「今日は久々に俺が自炊してやる。チャーハンだチャーハン」  キッチンから榊原の上機嫌な声が響いてくる。 「チャーハンなら、近くの食堂に行きましょうよ。あそこのチャーハンは最高って、いつも言ってたじゃないですか」  奈緒がそう言うと、榊原はキッチンからこちらに顔を覗かせて「お前、分かってないな」と返した。 「そういや、霞木にちゃんと俺の料理食わせたことなかったな。せっかくだ。この機会に、俺の腕前を思い知ることだな」 「まあ、あまり期待は出来ませんけど」と、奈緒は店内の有様を見渡しながら言う。榊原はそんな奈緒に向かって「まあ見てろ」と、無精髭を撫でながら思わせぶりな口調で告げた。そして、そそくさと再びキッチンに姿を消してしまった。  奈緒は小さなため息とともにそれを見送ると、ふと店の入り口に目をやった。それから、扉の上にかかった時計を見た。閉店時間までは、あと10分ほどある。だが、今更客など来やしないだろう。  奈緒は店の外に出ると、扉に掛かった『OPEN』の木札を見上げた。もう、閉店ということにしよう。そう思って手を伸ばした、それと同時に、視界の隅に何かの影がちらついた。  奈緒は思わず手を止め、辺りを見回した。すると、奈緒のすぐ隣に立つ、制服姿の小柄な男の子が目に入った。彼は、今まさに扉の取っ手に手を伸ばそうとしていた。  男の子もちょうど、奈緒が見ているのに気づいたらしく、はっとしたように手を引っ込めて後ずさりする。そして、奈緒の視線を避けるように、せわしなく目を泳がせる。  まさか、彼はここの客なのか。奈緒は慌てて木札から手を離し、扉から一歩離れた。男の子はやはり、何も言わずにもじもじしている。 「あっ、お客さん、ですよね?どうぞ」  奈緒は思わずそう言ってから、しまったと思った。何も買わずに帰るとは言いにくい雰囲気を作ってしまったかもしれない。  もう聞き飽きた烏の鳴き声が、どこかから響いてくる。もう、日が暮れようとしている。男の子は、奈緒の様子を目だけでちらちらと伺いながら、やがておずおずと扉を開いた。
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