どうか私を見て

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どうか私を見て

 その青年は、月に恋をした。  静まりかえっている真夜中の湖畔。悠々と佇む満月を正面に、キャンバスに筆を走らせる。月光に象られた青年の影は休むことなく動き続ける。しばし続いた息つく暇もない躍動は、しかし突然ピタリと止まる。惚けたように完成した絵を眺める。そこには見事な月の絵が、実に写実的に描かれていた。イーゼルからキャンバスを取り上げ、そのまま湖に映り込む月へ小舟を漕ぎだす。 「我が最愛の方へ」 青年はつい先ほど完成させた絵を、月へと沈める。完全に波紋が消えたのを見届けると、ほぅと蕩けた笑みを真上の月へ向ける。手を胸の前で組み、ただ夢想する。 朝の気配が訪れる前には、そこには誰もいなくなっていた。 次の日も青年は同じ時間、同じ場所にいた。無我夢中で、昨日とは異なる形の月を描く。そして完成品を湖畔の月へと沈める。その繰り返し。何日も何日も、青年は月へ熱烈な求愛を届けようとしていた。    その湖畔は雪化粧の残る山の麓にあった。夏にかけて雪解け水が流れ込み、水底まで澄み切った見事な光景を作り出していた。あたりに街のような無駄な灯りは一切なく、夜闇の中では月のみがゆったりと輝く。清らかな水面に映る月も、同様に魅惑的なものであった。 美しく希少な自然には大概、人ならざるモノが住み着いている。この湖も例外ではない。ウンディーネという精霊を知っているだろうか。腕や足に魚のような鱗を持ち、月がのぼるまで水底で静かに眠りについている。鱗は月光を受けキラキラと煌めき、装飾品を纏っているかのようにも見える。人間がウンディーネの容姿を形容するときは、どの話でも長い髪をした美しい女性と表されるだろう。 彼女は何十年も前からここに住んでいた。底から月を眺め、眠り、たまに歌って、静かに一人で過ごしていた。しかしここ数週間、ほぼ毎日この場に来る自分以外のモノがいる。ただ絵を描き、完成したそれを湖に沈め、朝が来る前に去っていく。最初はこの水を汚しにきたのかと思った。だが、ゆっくりと落ちてくる絵画はどれも見事な出来で、しかも月の光を受けると淡く光った。底まで届く月光のおかげで、日を追うごとに彼女の住処は幻想的な光と絵画に満ちていった。今まで暗い水の中では寄り添う友は見上げる月しかいなった。ウンディーネにとって、これは新鮮で嬉しい変化だった。夜になると昨日落ちてきた絵画を眺めながら、今夜はどんな絵が届くのか微かに頬を染めながら待ち望むようになった。 はて、20は超えただろうか。絵を並べながらふと思う。こんなに綺麗な絵を毎夜描きにくるモノは、果たしてどんな奴なのか。純粋な疑問を解決すべく、水面へ手を伸ばす。夜の空気を吸い込むと、草木の香りのほかに人工物の匂いがした。黒い影は幸いにもこちらに気付いてはいなかった。静かに、しかし熱い吐息を漏らしながら筆を振るう人間がいた。なぜだか、目が離せなかった。しばらく呆然として彼を眺めていたが、描き終わったらしくこちらへ小舟を出そうとしていた。慌てて首を引っ込める。すると案の定か、彼は先ほどまで描いていた絵をキャンバスごとトプン、と沈めた。底まで落ちる前に追いかけて抱き止める。水の中、ぽうっと光る絵画はやはり美しかった。 朝の気配が近づく中、ぼーっと絵画を眺める。覗き見た、彼の熱に浮かされたような顔が忘れられなかった。  とぷん、とぷん。青年は変わらず絵を描いては、沈めていく。水底には光が落ちていく。ウンディーネは青年が落とす絵をすっかり気に入ってしまった。しかし一つ気に入らないことがある。絵の題材だ。あの青年はひたすらに、夜のぼる月のみを描き続けていた。そんなにあの月がいいのだろうか。あんな熱っぽく見つめて、想い続けて、でも何も返ってはこないないだろうに。たしかに今まで長い年月を共に過ごしてきたが、話しかけてきてくれたことすらない。押し黙ってただあるだけの月よりも、自分の方がずっと良いはずだ。自分ならば見つめられたら微笑んでやれるだろう。求められたら手を伸ばしてやれるだろう。絵を捧げられたら、お礼に口づけだってしてやれる。そうは思うが、湖の底に並ぶ絵画の数々を見ても青年があの月以外に目もくれないのは一目瞭然だった。ここで彼が描いた絵を大事にしているのは自分なのに。どうしたらこちらを見てくれるだろうか。 青年は名をラピスと言った。絵描きの家系では無いし、決して裕福な家柄でもなかった。だが幼い時から夜見上げる月に焦がれ、それをどうにか成就させようと足掻き続けた。 今夜もここ最近通っている湖のほとりで筆をとる。さて、と筆をつけようとした時、後ろから声がかかった。 「また来たのね」 透き通ったガラス細工が鳴っているような、そんな声だった。思わず振り返ると、月光を受け輝く髪を持った少女が立っていた。その大人びたような不思議な少女はとん、と軽く踏み出して隣へ並ぶ。まだ真白のキャンバスを覗き込んでは、口を尖らせる。 「どうせまた、あのデクノボウを描くのでしょう?そんなにアレが良いの?」 「そうだよ。俺はあのヒトが好きなんだ」 さらにぷくーっと頬を膨らませて、彼女は筆を持った青年の手を掴む。 「あんなのより、私を描いて。私ならちゃんとお礼も言えるわ!あなたが望むことも返せる。だから、月じゃなくて私を__」 「見ていたよ。ずっと、ちゃんと、君を見ていたよ」 少しはにかんで青年が笑い、両の手で握り返す。どういうことか、と尋ねる前に激しい痛みと熱が剥き出しの肌を襲う。声にならない叫びをあげ、その元凶を探す。痛みの中心は青年が触れた場所だった。激しく焼け爛れどんどん熱と激痛が侵食していく。 「君、ウンディーネだよね?知っているよ、俺も探してたんだ。鉄はやっぱり痛いかい?ごめんね、でもどうしても君が必要なんだ」 何を言っているのかわからないまま、自分の命が消えていくのがわかった。どうして、怖い、痛い、やめて。声を出したくても、もう喉まで焼けた。 青年はとても嬉しそうに無邪気に笑う。 「俺の絵を気に入ってくれたんだろう?ありがとう。あの絵の具は良いよね。月光に当たると光るんだ。ちょうどもうなくなる頃だったから本当に助かったよ」 ありがとう、ありがとうと、仕切りに繰り返す青年の目はウンディーネを確かに捉えていた。が、彼女を真に見ていないことは誰の目にも明らかだった。間際の一瞬、ウンディーネは思い出す。月とは狂気の象徴であった。どうしてこの青年があれに魅せられているとわかっていたのに、姿を見せてしまったのか。 こいつは本当に誰も見ていない。 湖畔の水妖精は静かに、丁寧に殺された。 ウンディーネが消えた湖からさらに西へ行った先。月見草が咲き誇る泉で、結ばれずとも幸せそうな青年は絵を描き続ける。いつかこちらを顧みてくれると祈って。 「ああ、どうか、この恋慕に気付いてください!!女神の写し身!我が最愛の方!!」
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