第1章 私立探偵

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 マリーの赤い日産パルサーは古い石畳の道を疾走した。すでに日付も変わり街に人影はない。日産のヨーロッパ仕様車パルサーは軽快にセバスチャン・ルートヴィッヒの事務所のある街区に滑り込んだ。  セバスチャンのことは既に調べてあった。母の築いたネットワークの中に過去に途絶えたルートがあったのだ。  だが、そう間を空けずにアンドレが追い付いてくるだろう。今はそっちが問題だった。 『このまま、見過ごすわけにはいかない。』  それに、ここで事件を起こさせては核心に迫れなくなる。  ヴァンパイアたちがヨーロッパで何を企んでいるのか、それを明らかにするチャンスを失いたくなかった。  そして、 『アンドレがマジェスティ(陛下)と呼んでいた男、そいつが黒幕だとするなら・・・』。  事務所には明かりが点いていた。すでに戻っている。車の運転手は探偵事務所の共同経営者レベッカ・ボルダーのはずだ。  マリーは事務所のドアをノックした。だが、返事がない。中にふたりがいることは明白だ。もう一度ノックする。 「どなた?」 レベッカの声。 「私、パリからの留学生でマリーと言います。遅くに申し訳けありません。どうしてもお話ししたいことがあって来ました」  扉の鍵がガチャリと鳴って、ドアが開いた。そこにレベッカが立っていた。 「ああ、あの、銃はしまって下さらない?」  マリーは真っ直ぐレベッカを見ながら言った。レベッカは銃など持っていない。銃はドアの影、セバスチャンがマリーの方に向けて構えていたのだ。  セバスチャンは銃を下ろした。マリーは部屋に一歩入った。そして後ろ手にドアを閉める。 「セバスチャン・ルートヴィッヒさん?」 「そうだが、一体君は?」  セバスチャンとレベッカは相手がまだティーンエイジャーのような少女と知るとやや緊張を解いた。 「速くここを出ましょう。アンドレ・ニッカネンがすぐここに来る」  マリーがふたりを促した。 「まさか・・・」 「あなたの素性はもうバレている。アンドレはあなたたちを抹殺に来るわ」 ふたりはまだ半信半疑だ。 「私がここに来たのが証拠よ。ここを突き止めるのにたいした時間は掛からない。急いで」  しかし、アンドレの追跡能力はマリーの想定以上だった。外でバイクの止まる音がした。 「まずい、もう来たわ。行くわよ」 マリーは無理矢理ふたりをドアの外へ連れ出した。そのまま非常階段へ向かう。 「速く」 「だが、あの医学生がそんなこと・・・」 セバスチャンはマリーの言うことが信じられなかった。  三人は非常階段を降りると、停めてあったマリーのパルサーに乗り込んだ。ゆっくりと車をスタートさせるマリー。  裏通りを抜け表通りに出たところでアクセルを一気に踏み込む。急加速したパルサーは深夜のハーグ市内を疾走した。 「おいおい、安全運転で頼むよ」  セバスチャンが掴まりながらマリーに言った。 「いい加減説明してくれないかな」 「私はあなたとアンドレ、そして財務省の役人との会話を聞いていた」 「なんだって?」 「あなたが、市立医科大学の小講堂にいたことも知ってる」 「ということは、あなたもあの男をマークしていた。あなたは何者なの?」  今度はレベッカがマリーに迫った。どう答えたものか躊躇していると、ミラーにバイクのヘッドライトが映った。 「やつだわ」  マリーの言葉に二人は後方を見た。アンドレがバイクに乗ってものすごい勢いで迫って来ていた。マリーはオートマ車にも拘わらずギアを入れ替えた。  ブレーキランプが点灯しないまま急減速したパルサーを左に急ハンドルを切ると裏路地へ入り込んだ。再びギアを元に戻すと急加速する。  アンドレのバイクは曲がりきれずに急ブレーキを掛けた。車体の向きを入れ替えるとマリーの後を追う。  再び大通りに出たマリーはハーグ市の中心部から北海側の町へパルサーを走らせた。 「どのみち逃げ切れない。どこかで決着を付けるしかない」 「決着って・・・」 「質問に答えてくれ。奴は何を狙ってる」  セバスチャンが再びマリーに尋ねた。 「それは決まってる。あなたたちの命よ」 マリーが平然と言った。 「命って・・・、あいつが私たちを殺すってこと?」 レベッカがマリーを後ろから睨みつけた。 「やり方が大胆過ぎたわ。あれで、彼らはあなた方を邪魔者と判断した。あいつを生かしておけばいつまでも狙われるわよ」  マリーは町を抜け海岸近くの駐車スペースにクルマを停めた。昼間なら観光客やツーリング客で賑わうのだろうが、今は誰もいない。街灯も数本しかなくあたりは闇に支配されていた。  マリーは車を降りると、アンドレが追い付いてくるのを待ち受けた。 「どうする気なの?」  レベッカがマリーの脇で迫る。 「今何を説明しても理解できないでしょう。とにかく、ヘマをしないことだわ」  二歩三歩前に出たマリーの姿が突然消えた。 「え? どこ? どこにいるの?」 レベッカはさすがに不安そうにセバスチャンに寄り添った。  そこへ爆音を轟かせてアンドレのバイクが入ってきた。エンジンを止めると再び闇と沈黙の支配する空間が訪れる。  アンドレはバイクを降りると静かに二人の方に歩いてきた。マリーの存在には気が付いていない。 「すまないが、あなたたちには死んで貰う」  アンドレの姿は一見して尋常のものとは思えなかった。光る瞳が二人を凝視していた。 「何なの? あなたは?」 とレベッカ。  街灯の照らす範囲に入ったアンドレを見たレベッカとセバスチャンは凍り付いてしまった。アンドレの瞳は真っ赤に燃えて2本の犬歯が2、3センチも伸びていたのだ。 「きゃあ!」  レベッカの悲鳴。 「お前は何だ?」 セバスチャンがレベッカを庇う。 「私が相手だわ」  その時後ろからアンドレに声を掛ける者がいた。その声に振り向くアンドレ。が、その時にはマリーの放った黒い網にアンドレは捉えられてしまっていた。  不思議な網だった。闇の中でも明らかに別の黒さで識別できた。5センチ四方程度の網目は柔軟に動き、ちょうど筒状にアンドレの膝から上半身を包囲していた。  アンドレは網目に触れることが出来ない。 「さっきのあの男は誰?」 マリーはアンドレの目の前に立つと尋問を始めた。 「おまえは?」  アンドレの目が更に赤くなる。 「そんなことはどうでもいいわ。聞いてるのは私の方よ。答えなさい。あの男は誰なの?」  アンドレは力任せに網に体当たりを掛けてきた。が、網は微動だにせず、場所も動かない。網は完全にアンドレの動きを封じてしまっていた。 「なら、ミカ・オーステルベルクのことを聞かせて。彼女をどうしたの?」  アンドレはミカの名前を聞いて動揺した。 「ミカを殺したのは誰なの? ミカはあなたに懐いていたはずよ。そう、ヒーラーとしての能力を持て余していたミカは孤独だった。あなただけが理解者だと思っていたはず。そんなミカを何故殺した?」 マリーが詰問した。 「やったのは俺じゃない」  アンドレはそう叫ぶとおとなしくなった。 「説明しなさい」  が、アンドレは黙ったままだ。マリーは黒の網目を2センチ詰めた。網はアンドレの身体すれすれにまで迫り、鼻の頭が網目に触れる。 「ぎゃあ!」  その途端アンドレの顔面には強い電流が流れたように強烈な衝撃が走った。  しかも衝撃が襲ってもアンドレは微動だにすることが出来ない。足下は自由なはずだが自ら歩くことは出来なかった。 「ミカをどうしたの?」  アンドレは鼻の頭が網目にぶつからないように顔を少し退いた格好で体勢を保った。 「お前は一体何者なんだ?」 アンドレがマリーに聞く。 「自分の置かれた状況が分かってないようね。私がこの網を一気に縮めれば、一瞬でお前の身体はバラバラの肉塊に代わるのよ。後はそれを拾い集めて海に捨てるだけ。もう誰もあなたのことを発見することは出来ない」  マリーは網目を更に1センチ詰めて見せた。アンドレの服のあちこちが網に触れた。今度はそのことごとくが鋭い剃刀の刃で切ったように破れた。 「さあ言え、ヴァンパイア!」  マリーが凄まじい気力でアンドレに迫った。  この様子を青ざめた顔で見ていたセバスチャンとレベッカは同時に呟いた。 「ヴァンパイア・・・?」 が、アンドレは依然何も答えない。 「ならば、死ね!」  マリーはそう叫ぶと一気に漆黒の闇の網を収縮させた。アンドレはバラバラの肉塊になる・・・はずだった。しかし、アンドレの身体はそのままで意識を失いその場に(くずお)れたのである。  網は消失し、吸血鬼の身体だけが路上に残っていた。マリーはアンドレに近寄ると首に手を当てた。脈は感じられなかった。 「し、死んだのか?」  セバスチャンがおずおずとマリーに尋ねた。 「いや、自分で心臓を止めたようだ。私が頭の中を探っていると気が付いたからだろう。こいつは何か矛盾を心の中に抱えている。運ぼう。手伝ってくれ」  3人はアンドレ・ニッカネンを縛り上げると、マリーはロープの結び目に短い銅色の紐を折り込んだ。  アンドレをパルサーの助手席に結わえつけるとマリーはシートを倒す。 「少し窮屈になるが、こいつの顔を見た対向車のドライバーが事故を起こさないためだ。我慢してくれ」  マリーは後部座席のセバスチャンに声を掛けた。 「それは、いいんだが・・・。教えてくれ。君は一体誰なんだ? そしてこいつがヴァンパイアって・・・。ど、どういうことなんだ?」  マリーは静かに駐車場から車を出すとハーグの中心地を目指して走り出した。 「ヴァンパイアの存在は信じる?」  ハンドルを握って前を見ていたマリーがそのままの姿勢でセバスチャンの問いに同じく問いで答えた。 「ヴァンパイアなんて、そんなバカなこと」  セバスチャンが言い淀む代わりにレベッカがマリーに言った。 「でも、この男の顔を見たでしょ?」 「そ、それは・・・」  だが、今はアンドレの牙も消え、たぶん目も赤く光ってはいないのだろう。さっき見たのは幻だったかも知れない。 「私は信じている。いや、半信半疑だったが、そういう連中がいるんじゃないかと子供の頃から思っていたよ・・・」 「セバスチャン、あなた?」 「私の祖先はオーストリアの古い一族だが、そういう種族との経緯が古文書に多く残っていた。もちろん誰もそれを真に受けてはいなかったんだが、私には信じる理由があった」  セバスチャンの突然の告白にレベッカは唖然としていた。 「あなたの祖先は私と同業よ。ルートヴィッヒ伯爵」  マリーの返事にセバスチャンはわずかだが微笑みを浮かべていた。 「やはりそうか。私は正しかったんだ。その金髪は染めたものだね。確か君はお母さんと同じ黒髪だったはずだ」 「そう、私はエリカ・マリア・オカザキ、ワラヴァニアの出身よ」 「ねえ、セバスチャン、どうしたの? どういうことなのよ?」  ひとり取り残されたレベッカが焦れたようにセバスチャンの袖を引いた。 「レベッカ、よく聞いてくれ。今の今まで、私も言い伝え、伝説の類いと思っていた。でも、このことは全て真実なんだと分かったんだ。そして今私たちが追っている事件も奴等の企んだこと・・・なんだね? マリーさん」  最後はマリーに向けてセバスチャンが問いかけた。 「その通り。まだ全体は私にも掴めていないけど。だからあそこであなたに死んで貰うわけにはいかなかったの。ついでに言えば、レベッカ、あなたもこの件の当事者のひとりだわ」  相変わらず覚めた目で前方を見ながらマリーは後部座席のふたりと話した。 「レベッカ、あなたの曾祖母レベッカはドイツからアメリカに渡って大成功を収めた大富豪よね」 「大富豪って。今じゃ上流階級の一番下くらいの家だわ」 レベッカが少し棘のある言い方で返した。 「当時は大変なものだった。そのレベッカ、あなたの曾祖母はヨーロッパで暗躍したヴァンパイア一族に対抗する勢力のパトロンだった」 「え? 聞いたことない」  レベッカはあきらかに当惑していた。なぜ、この金髪の女が自分の知らないわが家のことを知っているのか。  真夜中。S&R探偵事務所に戻った3人は大汗をかきながらアンドレ・ニッカネンを3階まで上げた。  ソファにロープで固定するとやっと人心地付いたのだった。 「お茶でも入れるわ」  レベッカはアンドレを見ることが出来ない。恐ろしかった。  ロープなど不要だというマリーに反対してセバスチャンにロープでソファに括り付けさせた。  奥の会議室でお茶を飲みながらセバスチャンとレベッカはまじまじとマリーの姿を見た。 「それで、あなたは、その、ヴァンパイアを狩るハンターだと?」 レベッカが恐れを含んだ口調で問う。 「ええ」  マリーは短く肯定した。 「いや、今でもそういう人がいたなんて・・・。だが、考えてみればそれが正しいんだな」 セバスチャンが改めてマリーを見る。 「お母さんに似ている・・・」  深いため息と共にセバスチャンが呟くように言った。 「あなた、この人のお母さんを知ってるというの?」  レベッカは探偵の目を見た。 「知っている、という程じゃないんだが・・・。1度だけお目に掛かったことがある。まだ私が学生の頃だよ」 「あなたのことは調べたわ。ルートヴィッヒ伯爵」 「はは、よしてくれ。私は伯爵なんかじゃないよ。伯爵だったのは祖父の時までだ。当時はオーストリアにいたんだが、私はワラヴァニアにひとりで下宿していたんだ。近所にオカザキさんという日本系の親子が住んでいた。オカザキさんは有名な占い師だったが、一方でヴァンパイア・ハンターだと伯爵に聞いたことがある」  セバスチャンが話し出した。 「さっきも言ったが、その手の古文書がじいちゃんの家にはたくさんあった。私はそれを眺めるのが好きでね。親戚の誰も、じいちゃんの息子、娘さえも与太話くらいにしか思ってなかった。だが、じいちゃんから聞かされたのはヴァンパイアは今でも生き延びており、相当の数が東ヨーロッパにもいると。そして現役のヴァンパイア・ハンターもいるんだと。その唯一知っているのがオカザキさんだと言っていた。たまたま下宿先が近かったので何度か見に行ってみた。そして1度幼いマリーさんを連れて歩いていたオカザキさんに挨拶してじいちゃんのことを立ち話したんだ。じいちゃんのことは直接知らなかったけど、ルートヴィッヒ伯爵家のことはよくご存じだった」 「私から付け加えるなら、そのルートヴィッヒ家をバックアップしていたのがボルダー家ということだ。あなたの曾祖母レベッカはアメリカから伯爵を支援していた。最後のヴァンパイア・ハンター、ルートヴィッヒ伯爵、セバスチャンの曾祖父をだ」 マリーがレベッカに伝えた。 「ちょ、ちょっと待って。それじゃ時代が合わないわ。曾祖母がアメリカで成功してからなのに・・・」 「ボルダー家はドイツに居る頃から名士だったわ。作り酒屋を手広く経営していた。だからもともとルートヴィッヒ家にも出入りしていた。アメリカで成功したレベッカはドイツにいる甥を通じてルートヴィッヒ家を支援した。この甥があなたに繋がるのよね」  レベッカは自身が知らない祖先のことを聞かされ頭が混乱していた。  ただ、唯一親交のあったアメリカの叔母にS&R探偵事務所設立の援助を頼んだ時、彼女は二つ返事で金銭支援を申し出てくれた。そして、運命だな・・・と言っていたが・・・。  マリーは席を立つと応接室のアンドレの様子を見た。そしてまた席に着くと、 「私もヴァンパイア・ハンターのルートヴィッヒ家とパトロンのボルダー家が探偵事務所をやっているのが不思議だった。しかも東方魔法協会に係わっていたから、てっきりあなたたちがヴァンパイア・ハンターなのかと思ったわ」 そう付け加えた。 「そうだ、2、3年前に東京でヴァンパイア騒動があったというニュースを読んだ気がする」 「ええ、あれが私の初仕事だった。その時母は死んだわ」 「え、オカザキさんが・・・」 マリーは東京での母の姿を思い浮かべた。  その時応接室で大きな叫び声がした。 「アンドレが目覚めたわ。少々手荒なことをするから、ここに居てもいいわよ」 マリーが言うと、 「いや、僕も行こう」 セバスチャンはマリーと共に席を立った。 「私も行くわよ。共同経営者なんだからね」  レベッカがセバスチャンのシャツの袖を掴みながら後に従った。
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